偉大な女形六代目中村歌右衛門-没後十年目
ベルクマン アンネグレート
歌舞伎では男だけが舞台に立ち、女の役は女形が女に、厳密に言えば、男性から見た理想の女性になりきって演じます。歌舞伎は現在も江戸時代(1603-1868)の町民の娯楽の世界を供するものなので、女性像も、どちらかと言えば当時の理想を追い求めています。このことが歌舞伎の優れた演技の魅力を決して損じないことはいうまでもありません。当時も今と変わらず、俳優が舞台の中心で、芝居はいわば歌舞伎の演技や踊りの技を最高の形で見せるための枠組みに過ぎません。
今月(2011年3月)31日の命日が没後十年目にあたる、女形六代目中村歌右衛門ほど戦後の歌舞伎に影響を与えたと目される俳優は他にいないでしょう。数十年間にわたって、様々な女役、お姫様、身持ちの良い女房役、男勝りの忠義のお局、または人気のある遊女、などを演じて輝きを放ってきました。華奢な体つきにもかかわらず、舞台の上で強力な存在感を有し、舞台に登場したその瞬間から観客を魅了しました。様式化されている、それぞれの俳優の家に伝わる演技は歌舞伎の伝統の基本になっています。六代目歌右衛門は伝統的な型をきちんと守りながら、現代の観客に親近感を抱かせることに成功しました。私が今日のことのように思い出すのは、超人的な力を持ち、咎無き人を悪人の魔の手から救い出した『女暫』の主人公巴御前役です。この舞台の迫力は、私がその場に居合わせた、3階席の最後尾まで劇場を満たしました。定式幕がしまった時、全員が一瞬に座席から跳びあがり、熱狂的に拍手しました。このような観客の感激を日本で体験したことはロックコンサートですらほとんどありませんでした。歌右衛門は当時73歳でした。このような人を惹きつけるカリスマ的な力はもちろん偶然によるものではありません。有名な女形、五代目歌右衛門(1866-1940)の息子で、5歳で三代目児太郎として初舞台を踏みました。そのときすでに長い間彼を寝たきりの状態にしていた足の関節の脱臼を克服していました。1933年、早世した兄が名乗っていた芸名五代目福助が与えられました。このことは昇進そして階層的な歌舞伎界において彼の実力が認められたことを意味します。1940年父親の死によって、歌右衛門は、若い役者が地位を上げていくために必要である、歌舞伎界における家長そして師匠という重要な後ろ盾を失いました。頼るものは自分しかなくなった才能ある若き女形はその後、戦前歌舞伎の巨匠の一人、初代中村吉右衛門(1886-1954)劇団に入り卓越した地位をものにしました。1951年、戦争で損傷を受けた歌舞伎座の再開の際、父親の芸名、歌右衛門を襲名し、この名のもとで歌舞伎の重要な役割を果たしました。
多くの歌舞伎俳優が映画に乗り換えた時期、六代目歌右衛門は律儀に歌舞伎に留まりました。同じくテレビの仕事もこの女形の大御所は一度も引き受けませんでした。それにもかかわらず、劇場の革新や実験には理解を示し、三島由紀夫の新作歌舞伎を演じましたが、あくまでも純粋に伝統的な女形の様式で演じたのです。34歳で「莟会」(つぼみ会)を発足させ、ここで新作に挑戦しました。彼は演技において自分にも妥協を許さなくて、歌右衛門独自の演技を確立しました。健康上の理由から、もう自ら舞台に立つことができなくなった時にこれを他の役者にも教え続けました。彼が海外で出演したことで、歌舞伎は国際的に知られるようになりました。彼は役者としてだけでなく、魅力的な人物そして紳士としても評価されたのです。六代目歌右衛門は46歳で日本芸術院の最年少会員となり、1979年に日本の最高の栄誉、文化勲章を受章しました。彼の功績はしかしながら歌舞伎に留まりませんでした。1971年から1999年まで日本俳優協会の会長を務め、同じく1975年から没するまで日本芸能実演家団体協議会(芸団協)の会長でした。この地位において彼は根気強く俳優の地位の向上に打ち込みました。今月、新橋演舞場では彼を偲んで歌右衛門が当たり役を演じた出し物が次々に上演されました。早稲田大学の坪内博士記念演劇博物館には歌右衛門特別展示室があって、彼個人の所蔵品も多数展示されています。おそらく命日には、没後に歌右衛門の庭から早稲田大学のキャンパスに移植された桜が咲いているでしょう。
(ベルリン自由大学歴史文学部講師、IT企業法務研究所研究員)
[追記:IT企業法務研究所代表研究員 棚野正士]
2001年3月31日、六世中村歌右衛門が旅立って、2011年は10年となり、3月新橋演舞場大歌舞伎で六世中村歌右衛門追善供養狂言が行なわれた。10年前の3月31日、満開の桜が散り雪が降る歌舞伎舞台のような日に六世中村歌右衛門は旅立った。六世歌右衛門は世田谷区岡本町の広い屋敷の和室で、桜が散り雪が降る庭を眺めながら亡くなった。美しいお顔であった