「芸術家地位法」を未来に開く扉に
―芸団協の歩みに見る、芸術家の「身分から契約へ」実現に向けた外からの提言―
IT企業法務研究所代表研究員・元芸団協職員
棚野正士(たなのまさし)
(注:本稿は新聞「カルチャーファーストーはじめに文化ありきー」2010年10月30日発行第2号に掲載された小論である。写真は同紙の表紙。同新聞の発行人・編集人:尾山淳二、発行:プロデュース尾山(滋賀県甲賀市水口町虫生野中央167-3、Eメール:j.oyama1223@gmail.com)
1.橋元四郎平先生の一周忌を機に
2009年8月1日、元最高裁判事で弁護士であり、かつ歌人である橋元四郎平先生が86歳の生涯を終えられた。そして、2010年7月19日一周忌の会が橋元ヒロ子夫人の主催で開かれ、ご夫妻が親しい方々が集い、心から先生を偲んだ。
橋元先生は元日本弁護士連合会事務総長、最高裁判所判事で勲一等瑞宝章受章者でもあり、日本の法曹界の最高峰に立つ法律家であるが、一方、1998年(平成10年)宮中歌会始の召人を務められた著名な歌人であった。
橋元先生は法律家であるだけでなく、歌人であり、こけしや三春人形の収集家で研究家でもあった。橋元四郎平先生の一周忌を機に先生が気にかけておられた実演家、芸術家の問題の一端に触れてみたい。
2.久松保夫らによって芸団協を創立
橋元四郎平弁護士は、1972年6月社団法人日本芸能実演家団体協議会(芸団協)の法律顧問に就任した。芸団協との縁は久松保夫専務理事(1919-1982)とのこけしが取り持つ縁であった。
久松専務理事は芸団協の創立者で、著作権法上の実演家の権利を確立した組織人であった。又、売れっ子のスター俳優であったが、同時に日本有数のこけしの収集家であり研究家であった。
芸団協法律顧問である橋元四郎平弁護士は「久松保夫著作集 役者人生奮戦記」(芸団協発行)の「追想」欄で、「心のなかの久松さん」と題してこう語っている。
「私が久松さんの終生の事業である芸能人の組織づくりに、弁護士として関わるようになったのは、昭和38年9月、「日本放送芸能家協会(略称「放芸協」)
(筆者注:放芸協は芸団協の会員団体で、現在は「日本俳優連合」)」の設立がきっかけである。このとき、私は、協会の定款、規約の作成を依頼され、設立総会にも出席し、法律顧問となった。」
「この頃から、久松さんは、著作権法の勉強を開始し、私がお貸しした著作権法の文献全部を、大学ノート数冊にノートしながら読破するという猛勉強をした。その成果が、昭和46年6月発行の『忘れられている著作権―芸能人は法律でどのように護られているかー』(筆者注:「久松保夫著作集 役者人生奮戦記」(芸団協発行)所収)である。この書は、著作権法(旧法)のもとでの芸能人の法的権利について、全面的に論じ、問題を提起したわが国始めての著作として、注目された。」
「この書の執筆中から、文化庁において、著作権法の全面改正の作業が進行、久松さんは、新著作権法に、芸能人の権利を十分に盛り込もうとして、全力を傾注した。その運動を推進しながら、久松さんは、専門芸能家の団体すべてを結集する全国統一組織を作ることに努力し、遂に昭和40年12月に「日本芸能実演家団体協議会」(略称「芸団協」)を設立するに至った。会長は徳川夢声、久松さんは専務理事として、組織の運営の中心を担った。私が「芸団協」の法律顧問に就任したのは、数年後であるが、その前から、事実上、芸団協関係の法律問題の相談を受けており、久松専務理事とは、芸能実演家の諸権利の確立と強化、芸団協の組織拡充等全般にわたり、終始意見を交換した。芸団協の業務全般にわたり、労苦を共にしたといって過言ではない。」
3.設立趣意書が示す芸団協の強い意思
こけしが取り持つ縁で、日本有数の法律家を顧問に迎えたことは、芸団協の歴史にとって何より幸せであった。
芸団協は1965年12月7日設立されたが(会長徳川夢声、正会員団体21)、その設立趣意書でこう述べている。
「わが国の芸能界は、古い歴史的伝統に支えられ、それぞれの時代に於てすぐれた代表的芸能家を生み出しながら、世界に誇りうる数々の民族文化的遺産を継承発展させつつ今日にいたっております。然しながら、実際にその創造にたずさわって来た芸能家は、旧来必ずしもそれにふさわしい所遇を受けて来なかったのが実情でありました。殊に昨今は、映画放送など視聴覚文化を中心とするマスコミ産業の驚異的発展に伴い、国民文化の中に占める『芸能』の位置も相対的に高められ、その直接の担い手である芸能実演家の社会的責務も又一段と重大になって来て居ります。
このような役割りの重大さにもかかわらず、一般にまだまだ芸能実演家の社会的地位は低く、他の諸分野に比して権利よう護、社会保障その他福祉制度確立の面でも著しい立おくれを示しているのが現実であります。
今日芸能界は、『著作権法の全面的改正』という、全芸能実演家にとってまさに人格権と生活権の根底を左右する大問題をかかえ、かつてないさしせまった状況を迎えているのでありますが、遺憾ながら芸能界は全体としてこれに対する有効な方策を講じ得るような態勢にあるとは言い難いのであります。
私共芸能実演家はこの際はっきりと、将来に向かって眼を開き、この法改正の帰趨を重大なる関心を持って見守ると共に、正に悔いを百年の後に残さないために今後共強力に働きかけて行かねばなりません。」(以下、省略)
芸能実演家が始めて大同団結するという喜びに満ちたこの設立趣意書は、久松保夫が中心になって橋元先生の指導を得て執筆されたと推察されるが、ここには、「技術の向上、社会的地位の向上、福利厚生の三本の柱を中心に、自己の属する諸組織を挙げて総結集」を図るという強い決意が盛り込まれ、以後、「技術の向上」「社会的地位の向上」「福利厚生」の三本は芸団協の中心柱となった。
4.「芸術家の団体」であることを指導原理に
1975年から21年間に亘って会長を務めた不世出の大芸術家六世中村歌右衛門(1917-2001)は、俳優、音楽家、舞踊家、演芸家等々すべての分野にわたる実演家75,000人をその芸術家としての思想で見事に統括した。
橋元先生は会長中村歌右衛門に深い敬愛の念を抱き続けていた。
中村歌右衛門会長は「芸術家であること」を至上命題にし、芸団協は「芸術家の団体」であることを指導原理にしてきた。
「芸団協春秋20年」(1987年発行)の中で、中村歌右衛門は芸団協の方針、基本理念についてこう語っている。(同書4ページ)
「やはりね、権利だとか法律だとかいうのも結構だけれどね、芸術家の団体だということを忘れてはいけないと思いますよ。」
歌右衛門会長にとって、「芸術家の団体」であることがすべての基本であり、基本思想であるという強い想いがあった。そして、中村歌右衛門は事あるごとに、「芸術家の地位の向上」を唱え主張した。
大芸術家中村歌右衛門会長を畏敬し会長の理念を支えた橋元先生を、歌右衛門会長も又尊敬し精神的支えにした。
中村歌右衛門、久松保夫、橋元四郎平というたぐい稀な人達を核にして、あこや貝が真珠を育てるように芸術家の統一的組織が形成されていった。上質の核がなければ上質の真珠は生まれない。
5.「身分から契約へ」が芸団協の原点
『コピライト』(1996年5月号。著作権情報センター発行)に橋元先生は、“著作権人語 当世風「身分から契約へ」”を書いている。
映画の著作物において録音・録画された実演には、実演家の録音・録画権が働かないという問題で実演家の契約問題を取り上げており、次のような趣旨である。
「現実は、実演家が自由な契約によって権利を確保することがきわめて困難な状況にあるといってよい。」と述べ、「ここで想起されるのは、『身分から契約へ』という有名な言葉である。これはイギリスの法制史家メインの『古代法』(1861年)第5章の終りにある『進歩的な社会の推移は、今までのところ、身分より契約への推移であった』に由来する(我妻栄「民主主義の私法原理」より再引用)。この場合の身分とは、自由人・奴隷・家長・家族などのような人的な地位であって、古代・中世では、個人の社会生活関係はこのような身分によって定まり、本人の意思に基づいて自由に定められる範囲が極めて少なかったが、文化の発達に伴い、自由な契約によって定められる範囲がしだいに増してきており、そこに社会の進歩をみることができる、というのである(有斐閣「新法律学辞典」による)。
今日の資本主義社会では、上記のような人的な地位によって法律関係が定まるという現象は、ほとんど姿を消した。そして、人的な地位としての『身分』のかわりに、使用者や労働者としての地位のような『社会的身分』が現れるようになった。また、資本主義の発達によって、契約条件を一方的に提示し締結をする、いわゆる『付合契約』が多く見られるようになった。しかし、実演家と映画会社の契約では付合契約とまではいえないであろう。あえていえば、実演家という『社会的身分』によって、権利ないし法律関係が定まることであろうか。」
「『映画』の世界では、かつての『身分から契約へ』が、新たな形で、未だ『身分』の段階にとどまっているとの感をいだかざるを得ない。そうであれば、早く『契約』の段階に進んでほしいものである。」
橋元先生の「身分から契約へ」という指摘はまことに卓見であり、先生の御遺言であるように思われる。
芸団協の50年は本来まさに、“身分から契約へ”の時代の変化を見据えた実演家達の闘いではなかっただろうか。芸団協の設立趣意書も、久松専務理事の組織づくりの原点も、又、中村歌右衛門会長の基本姿勢もすべて“身分から契約へ”の流れに内在する課題ではないか。
6.芸術家の地位向上に向けた立法を
芸術家にとって大切な国際文書に、ユネスコ総会が1980年に採択した「芸術家の地位に関する勧告」がある。久松専務理事は芸団協の立場からこの作成に献身した。30年経ってもその輝きは失われていない。
この勧告を拠りどころにして、国内法として「芸術家の地位に関する法律」(芸術家地位法)(仮称)を、「文化芸術振興基本法」の特別法として立法することはできないだろうか。
芸団協は設立趣意書に「技術の向上、社会的地位の向上、福利厚生」を掲げた。しかし、この三本の柱は今揺らいでいるように見える。例えば、「福利厚生」の事業として、芸団協は坂東三津五郎会長(二代目会長)、久松保夫専務理事、大宮悌二委員ら(いずれも俳優で故人)の情熱で「芸能人年金共済制度」が1973年発足した。しかし、“こころおきなくよい仕事をするために”創られたこの制度は、2009年突如廃止された。納得できる理由は加入者・受給者には説明されないまま制度は消滅し、代わって福利厚生施策をどう考えるかも提示されてない。そこでは組織執行者の責任もあいまいにされている。芸術家への配慮よりも自己防衛が優先し、組織統治の使命感、気迫、矜持が失われている。
ものごとは単純である。“国民”への視点を欠いたとき政府組織は堕落し、“芸術家”への視点を欠いたとき芸術家組織は霧の中を彷徨う。大事なのは芸術家への視線である。そして、その奥には文化、芸術へのほとばしるような想いが求められる。
“身分から契約へ”の流れの中で、未来を開く扉として「芸術家地位法」を考えることは妄想に過ぎるであろうか。
以上