国際的な北斎-偉大な日本画家がベルリンを訪れています
ベルクマン アンネグレート
(ベルリン自由大学 歴史文学部講師・IT企業法務研究所研究員)
1999年のアメリカ合衆国雑誌「LIFE」の企画、「1000年の間に世界で一番功績を残した100人」江戸時代の絵師、葛飾北斎がたった一人の日本人として選ばれました。その理由は、ドイツの首都ベルリンにあるマルティン グロピウス美術館で、10月24日まで開かれている北斎展の約430点の作品を見れば、納得できます。初日から沢山の参観者がつめかけ、展示室に並べられた浮世絵と絵画に見とれています。
1761年に今の国技館の近くの墨田で生まれた芸術家は没年の1849年まであらゆる絵画の技術、技法を試して常に新しいことを目指しました。一生筆を持って絵を描き続けた北斎の作品は3万点を超えているそうです。北斎の名前を殆ど知らないドイツ人でも1829年から発表された「富岳三十六景」の中の「神奈川沖浪裏」の錦絵には見覚えがあります。北斎はやはり国際的な存在です。しかしこのシリーズが、70才を過ぎた北斎が描いたものであることは、展覧会を鑑賞しているほとんどの観客は知らないようです。
「富岳三十六景」 神奈川沖浪裏 1831年頃 ©Sumida City
つまり役者絵や風景画の版画だけではなく肉筆浮世絵から挿絵芸術にも優れていた、画工北斎は奥が深いのです。長い人生で、「春朗」から「画狂老人 卍」まで、北斎の画法は30回以上も行われた改号とともに変わっていきます。最初の師匠勝川春章の門下で師匠の画風によく似た役者絵で、若き北斎は絵師としてのスタートを切りました。幼いころから絵をよく描いた北斎は狭い門下の絵師よりももっと自分なりの絵を描きたかったそうで、この勝川派から離れたのです。70年も絵画を制作し続けた天才、北斎は常に新たな画法を求めて独自の画様式を確立しました。役者絵から美人画、子供絵、武者絵、名所絵,玩具絵、宗教絵,相撲絵、又は西洋から入った透視画法を用いた浮き絵、名所風俗絵,挿絵、絵暦、中国画風または西洋の銅板を模型にした絵はがきを思わせる版画等々の作品を描きました。歌麿が美人画、写楽が役者絵など同時代の浮世絵師が一つの特定分野を得意としたのと違って、北斎の作品はそう簡単には把握できません。
日独友好150年記念の目玉のイベントにふさわしく、クリスティアン ウルフドイツ大統領が開会式で演説台に立って、日独文化交流の重要性を唱えました。記者会見ではこのヨーロッパ最大の北斎展に日本経済新聞社が大きく関わっていることはドイツ記者にとって物珍しいことでした。ドイツの新聞社やドイツの大企業は日本と違ってこのような展覧会のメインスポンサーや主催社にはならないからです。文化予算が国の予算の1パーセントしかないため、日本の私立の文化活動又は文化交流には大企業の貢献が大きな位置を占めています。今回の展覧会もそうです。展示品の中で11品だけは日本の収蔵品ではありません。この中で特に注目されるのは「北斎漫画」です。1812年から絵の手本として出版されたスケッチ図で、人物、風俗、動植物、妊怪変化などが細かくおかしく描かれていて、当時の百科事典のようにも見うけられます。1832年から1851年までの間にオランダで刊行されたシーボルトの『日本』に日本の社会風俗の紹介のための挿絵として北斎の漫画が使われていました。このように北斎漫画によって日本とヨーロッパとの関係は公式の友好関係に先立って始まったのです。シーボルトの収集品を所蔵するオランダのライデン国立民俗学博物館にシーボルトが集めた「北斎漫画」1セットが、発売時のままで大切に残されています。ところが一番保存のいい北斎漫画はベルリンのダレームにある東洋美術館に丁寧に保管され,現在北斎展で展示されています。
ベルリンと北斎を結ぶものはもう一つあります。それはいわゆる「ベロ藍」つまり現在プルシアンブルーと呼ばれる化学絵の具です。この顔料は1706年にベルリンの顔料屋ディースバッハが発明したといわれます。それまでに青色は植物から製造されたので、時が経つと次第に色が薄くなってしまいました。この材料は1760年ごろ、オランダ人によって日本にもたらされ、1820年代から中国人によって大量に持ち込まれ、浮世絵にも使われるようになりました。
錦絵といわれる日本独特の多色刷りが18世紀の半ばに製造されるようになって、江戸の観光名所や役者絵似顔絵など、国元に持ち帰る江戸への思い出が大量生産されました。その特徴の一つは黒い輪郭線ですが、探検心や挑戦精神に富んだ北斎は「富岳三十六景」でベロ藍を使い、輪郭線に至るまでこの色を使いこなしました。ベロ藍のおかげで、180年も前に印刷されたようにはとても見えません。
「富岳三十六景」 武陽佃島 1831年頃 ©Sumida City
フランスのエッチング画家ブラックモンが1856年に日本からの磁器を買おうとした時、包み紙としてつめられていた北斎漫画を見つけて、このすばらしい絵に圧倒され,すぐにこの磁器と包装紙をともに買ったのは有名な話です。フランス画家の仲間にこの北斎の絵を紹介し、いわゆるジャポニズムが生まれました。利賀、ゴッホ、ゴーギャンなどに広がり、ヨーロッパの印象派に与えた影響は大きいものでした。この発展にはもう一人のドイツ人が関わっています。画商のジーグフリード ビングは浮世絵に魅了され、自ら日本に行って、数千枚の浮世絵を買って、パリで商売をしました。正に浮世絵そして北斎の錦絵の国際化でした。ヨーロッパでは最初から美術品と見とめられた浮世絵は明治維新から行われた近代化と写真技術の普及によって日常生活からは消えていきましたが、生活用品から日本と西洋の博物館所蔵品へと変貌を遂げました。
北斎が75才のときに刊行された「富嶽百景」の後書きに次の文章があります。「己六才より物の形状を写の癖ありて五十才の頃よりしばしば画図を顕といえども七十才前に描くところは実に取るに足るものなし。七十三才にしてやや禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり。故に八十六才にしてはますます進み、九十才にして尚その奥意を極め、百才にして正に神妙ならんか。百有十才にしては一点一格にして生けるが如くならん。願わくは長寿の君子、余が言の妄ならざるを見たもふべし。」北斎の作画に対する精神を明快に現わす大切な文章です。生涯、決して贅沢な生活を送ることなく、さまざまな個人的な家族の問題を乗り越えて、自分で選んだ絵師の道を死の直前までひたすら歩き続けた北斎は正に画狂老人でした。気が狂っていたか、絵の制作に夢中だったのか、それとも絵の制作において自由に生きていたのかはわかりません。しかし、作品の中ではしばしば世界を皮肉な目で見ているような感じがするのではないでしょうか。何となく自分が生きている時代、その社会をその真っ只中からではなく、一歩引いたところから眺めているような絵が沢山あります。これは漫画だけではなく、特に錦絵に表現されていると思います。この悠揚迫らぬ態度は現在の日本社会にもドイツ社会にも欠けているように思われます。この展覧会では優れた作品だけではなく、北斎の人間臭さも私たちを魅了します。観客を釣り上げようとする(動員せんとする)北斎展のキュレーターの目的は達成されたのです。
「富岳三十六景」 甲州石班沢 1831年頃 ©Sumida City
19世紀後半にルネッサンス様式に建てられた壮大なマルティン グロピウス美術館は一時的な企画展覧会だけを開催する博物館です。日独友好150記念に西洋の美術界に大きな影響を与えた絵師、国際的にも大きな存在であるこの北斎展によって、この絵師の作品のスケールの大きさがはっきり伝わってくるでしょう。そして何となく感じられる、現代の日本の江戸時代へのあこがれも。
K&K wrote:
我々日本人も少し自国の歴史や文化を学ばなければなりませんね。
日本には世界に誇る素晴らしい伝統や文化がたくさんあるのに・・・