第一章―アジアの音楽史「江戸歌舞伎はチンギスハーンがいなかったら誕生しなかった!?という物語」 その2
大野遼のアジアの眼
NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼
【アジアの音楽史の絆 2人のミュージシャンの彫像と画像】
―時空を超えてアジアの音楽のシルクロードを繋いだ「アイルタム楽人像」と「浄瑠璃三味線の祖 澤住検校(さわずみけんぎょう)」― 詳しくは今後紹介するが、日本の音楽史はアジアの歴史・音楽史と密接に結びついている。その中で忘れてはならないアジアの東西の二人のミュージシャンを紹介する。一人は、1700年前、アフガニスタンとウズベキスタンの国境の川・アムダリアを渡った女性のミュージシャン。もう一人は、400年前、16世紀の末、盲目の琵琶法師と呼ばれた男性のミュージシャンである。 女性のミュージシャンは、仏教僧院伽藍の欄干彫刻となり現在までその姿を留め、アフガニスタンとウズベキスタンの国境の川アムダリア北岸の町テルメズ市の考古学博物館に展示(複製)されている。男性のミュージシャンは、明治9年に大阪市天王寺の生国魂神社(いくくにたまじんじゃ)境内に建てられた浄瑠璃神社に近松門左衛門と並んで浄瑠璃七功神の一人として祀られている。 女性の名は今では不詳だが、「アイルタム楽人像」と呼ばれ、男性の名は「澤住検校」と呼ばれる。
●「アイルタム楽人像」
指に棒状の撥を持ち四弦を弾いている「アイルタム楽人像」(中央)。楽器の胴部上左右に薩摩琵琶と同じ半月が彫り込まれている(右下)。
2012年9月6日午後6時頃、薩摩琵琶の首藤久美子、津軽三味線の木村俊介そして都山流尺八の大師範橋本岳人山、ネパールの横笛バンスリの天才パンチャラマ、タブラの名手サラバンラマの5人のミュージシャンを中心とするコンサーツアー参加者14人が、ウズベキスタンとアフガニスタンの国境の町テルメズ市の考古学博物館を訪れた。博物館はすでに閉館していたが特別の計らいで見学を許され、そしてある考古学的出土品の彫像の前で演奏会が開催された。聴衆はツアーの参加者及び博物館職員、地元テレビ局取材クルーだけだった。この演奏会はウズベキスタンと日本の国交20周年記念事業として実施され、全体のコンサートツアーの最大のイベントの一つだった。 この彫像こそ「アイルタム楽人像」。1932年に、テルメズ市の中心から東18キロ、アフガニスタンとウズベキスタンの国境の川アムダリアの北岸アイルタムの川底からたまたま漁師の網にかかって引き上げられたもので、石灰岩の胸像3体。翌年中央アジア考古学の父M.E.マッソンによって、文化史上重要なガンダーラ的系統の仏教美術品として認められ、アムダリア北岸、北バクトリア地域を中心とした中央アジアの仏教遺跡が注目されるきっかけとなった彫像である。太鼓と縦型ハープ(箜篌)を演奏する演奏者の中央で、四弦の楽器を棒状の撥で叩いている姿はクチャの千仏洞を始めとする西域の仏教壁画に共通してみられる姿で、顔は明らかにペルシャ系の女性で美形である。博物館が開設された10数年前初めて目にしてからずっと気にかけてきた像で、友人に依頼して撮ってもらった写真を仔細に検討して雅楽の楽琵琶から現在日本の薩摩琵琶にまで継承されている「曲項四弦琵琶」と判断した。今回のツアーでこの「楽人」と面会した首藤久美子さんは、その楽器の形状や装飾、特に日本から持参した自らの琵琶の左右の半月(音響孔)が「アイルタム楽人像」が手にする楽器にも彫り込まれているのを目にして思わず「へー、同じなんだ」と声を上げていた。ペルシャのバルバットを起源とする琵琶を弾く「アイルタム楽人像」と日本の薩摩琵琶奏者首藤久美子さんは1700年の時空を超えて初めて対面した。
浄瑠璃三味線の祖 澤住検校(生没年不詳)
日本で弦楽器の主流は琵琶:「曲項四弦琵琶」であった。初出図「アイルタム楽人像」が手にしていた楽器は目に見える「(曲項;想定)四弦琵琶」の最古の事例となっている。楽琵琶、源氏物語で匂の宮が弾いた琵琶、平曲の琵琶、琵琶法師の琵琶、そして薩摩琵琶として今日まで継承されている。16世紀の後半、室町時代から琵琶法師による語り物として人気だった「浄瑠璃姫の物語」(義経と三河國矢作の長者の娘との恋物語)を盲目の琵琶法師(上図右)は、曲項四弦琵琶を弾き、語っていた。 1562年、信長の時代に、琉球から堺についた交易船で武家の楽器として首里城で使用されていた三線が渡り、琵琶法師そして信長の目に止まった。信長はこれを珍しく思い朝廷に献上したという。琵琶法師の中で、この浄瑠璃姫の物語を琵琶から三線に持ち替えて弾き始める者があった。その一人が澤住検校(上図左)だった。大阪堺に伝わった三線は、「色道大鏡」によれば、初め中小路検校そして虎沢検校が楽器として弾くことを始め、虎沢検校の弟子であった澤住検校が、浄瑠璃姫物語の伴奏に三線を使った。しかし琵琶の撥は捨てず、その時に浄瑠璃三味線が誕生した。江戸で最初にこれを伝えたのは澤住検校の弟子、薩摩浄運であった。この薩摩浄運以降の経緯は今後紹介するが、澤住検校は後の江戸歌舞伎の下座音楽や清元三味線、そして津軽三味線の遠祖であり、澤住検校が、浄瑠璃姫物語の伴奏のために、琵琶から三絃(三線)に持ち替えた時が、日本の弦楽器の主流が「四弦」(琵琶)から「三弦」(三味線)に移行した瞬間であった。 1562年、近世邦楽や江戸歌舞伎を誕生させて江戸文化の基層に大きな影響を与えた沖縄(首里城)の三線が堺への渡来したことは、1543年、ポルトガルから種子島への鉄砲伝来が信長の長篠の戦いで初めて本格的に使用され軍事革命を起こし、家康による天下統一−江戸開府につながったことと比較され「三線は邦楽に革命を起こした」と言われる。
「アイルタム楽人像」及び「澤住検校」を遠祖とするアジアの音楽史の最後の姿の一つ木村俊介の津軽三味線。
1700年前の「アイルタム楽人像」を起源とするアジアの音楽史は、16世紀末に、澤住検校の掌(てのひら)で、「四弦」と「三弦」が交錯(持ち替えた)したことで江戸歌舞伎や長唄という日本の近世邦楽を誕生させた。近世邦楽は日本独自のローカルな文化ではなく、時空を超えたアジアの音楽史と深く結びついている。 「アイルタム楽人像」が手にしていた棒状の撥は、三味線の大きな撥の形で今も使用されている。今回国交20周年を記念するコンサートツアーに参加した木村俊介の津軽三味線はこの琵琶の撥による演奏方法を踏襲しているという意味で、津軽三味線は、薩摩琵琶と同様、アジアの音楽史がたどり着いたもう一つの最後の姿であった。 人間の社会がひとりひとりの絆で成立しているとすれば、この「琵琶を弾く二人の楽人」は、国交20周年という国家の絆、民族、宗教の境そして時空を超えてアジアをつなぐキーパースン。アジアの音楽のシルクロードの絆といえる。
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