第一章―アジアの音楽史「江戸歌舞伎はチンギスハーンがいなかったら誕生しなかった!?という物語」 その5

大野遼のアジアの眼

NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼

【二つの「琵琶」の回廊は仏教伝来のルートと重なる】

―インド系「五弦」とペルシャ系「四弦」の違いは、「時期の差」。「シルクロード」は「政治回廊」―  インド系とされる「直項五弦琵琶」とペルシャ系とされる「曲項四弦琵琶」について、亀茲千仏洞第三八窟の北京大学の調査結果や北魏の雲崗石窟第八窟、第七窟の例に即して、「五弦が中国に導入されたのは五世紀以前」、「琵琶:曲項四弦琵琶が五弦よりも西域を代表する楽器になったのは五世紀後半から」と整理した論文がある(「唐代琵琶雑考」外村中著)。  資料を詳しく検討するスペースはないが、私はこの結果に基づいてこう考えた。「仏教的行事に管弦が伴う以上、インド系の五弦が流入したのはインド系の仏僧が主体となり、ペルシャ系の琵琶:曲項四弦琵琶が流入したのは、ペルシャ系の仏僧が主体となり、この仏教的儀式を盛り上げるために使用されたはずであるから、おのずから、仏教の伝来ルートと二つの琵琶系楽器の伝来ルートを浮き彫りにするはずである」  そうして世界史年表を眺めてみると、ヒマラヤ・パミール高原、天山山脈、アルタイ山脈というアジアの中心を構成する三つの山塊を越えて、仏教伝来とともに移動したであろう楽人の移動する姿が見えてきた。  古来、中央アジアとインドを隔て、交通の要衝でもあった、アフガニスタンとパキスタンの国境を斜めに走るヒンズークシ山脈。月氏由来のペルシャ系のクシャン王国は、この山脈の東西地域を支配していたが、クシャン王国の東側がガンダーラ。ここを四世紀半ばから五世紀半ば、インドの土着王朝グプタ朝が領有した。紀元前のインド土着政権であるマウリヤ朝のアショカ王以来の聖地スリナガル(カシミール)をペルシャ系の支配から奪い、再びマウリヤ朝と同じ系統のインド人政権がこの地域を領域とし、インド人が中心となってヒマラヤのカラコルム峠を越えて、タリム盆地のホータン、カシュガル、クチャへ仏教を伝来させたのが、外村氏のいう「五世紀以前」であることは間違いない。この時期、西域仏教壁画には、インド系と想定される楽人が五弦琵琶を奏でる姿が描かれ、中国では、私も訪れたことがある中国の北魏竜門の石窟は、かねて石仏にグプタ様式がみられることで知られている。インド系の仏僧とインド系の楽器五弦を抱えた楽人がヒマラヤを越えていたのはこの時期と考えられる。五世紀半ば、イラン系の民族国家と推定されるエフタルに討たれ、グプタ朝がガンダーラから撤退するまで、このおよそ100年間、インド人が安定してヒマラヤ、パミール高原を超えて、仏教普及の担い手となっていたからである。  インド出身の父と亀茲王の妹を母に持つ鳩摩羅什が、母とともにグプタ朝のインド・カシミールに赴き、小乗から大乗仏教へ転向し、仏典の翻訳に集中し、東晋の僧法顕がヒマラヤを越えてインドを訪れたのもこの時代であった。

● 鳩摩羅什と法顕はタリム盆地から南へ

グプタ朝と西域、中国との関わりについて、鳩摩羅什と法顕を通して少し具体的に記しておく。

亀慈千仏洞前の鳩摩羅什像の画像

亀慈千仏洞前の鳩摩羅什像

 鳩摩羅什は、350年、亀茲(きじ) 国の王族として誕生した。インド史の黄金時代であるグプタ朝は、アーリア人のバラモン教とドラヴィダ人などインド先住民の宗教が融合したヒンドゥ教、バラモン階級の中から生まれた仏教が隆盛。学芸文化が盛んだった。鳩摩羅什の父は、グプタ朝の大臣の息子であった鳩摩炎(仏陀の出自と在り様が似ている)。母は、オアシス都市亀茲国の王の妹耆婆(きば)。鳩摩羅什とは漢字表記だが、父と母の名を合体した名のようである。父は王族から小乗仏教の僧になり、亀茲国王から招へいされ、還俗して耆婆を妻とし、鳩摩羅什が誕生したが、母は逆に鳩摩羅什7歳の時(356年)に、鳩摩羅什と出家し、9歳の時(358年)グプタ朝支配下のインドのカシミールまで3年間の仏教修行に出て、岐路パミール高原で大乗仏教に転身した。この転身がなければ中国や日本に大乗仏教は伝えられなかったといわれる。グプタ朝(320頃〜550頃)の最盛期で、亀茲国とインドの交流が活発な時代であった。  鳩摩羅什は、インドに去った母と別れて亀慈の寺院で大乗仏教の普及に努めていたが、長安を首都とする前秦(チベット系;中国南部の東晋と競い376年、鮮卑や匈奴、漢族を抑えて全華北を統合し、朝鮮半島の高句麗、新羅は服属朝貢した)の苻堅(前秦第3代皇帝357年 - 385年)が派遣した呂光指揮する軍によって、亀茲国を滅ぼされたうえ連れ去られた。鳩摩羅什を拉致した呂光は亀茲を侵略した際、「大曲」を持ち帰ったとされ、中国の音楽史上重要な事蹟となっている。この中にも五弦琵琶があったと思われる。呂光凱旋の時には既に前秦は383年、東晋に敗れ衰退、395年、滅亡。時代は大きく北魏の時代に移行しようとしていた。401年、鳩摩羅什は、後泰国第二代王の姚興(ようこう)の求めで長安に入り、409年に60歳で亡くなるまでに、三十五巻、二百九十四部の経典の漢訳を行った。これがアジアの大乗仏教の根幹となっている。この頃、中国は南と北に大きく分かれ、北は異民族が覇を競う五胡十六国の時代。前秦、後秦は北朝の一つ。そして南朝からインドに向かった僧の一人が東晋の法顕(337〜422)であった。法顕は、399年、ヒマラヤ北麓のホーテン経由で6年かけて王舎城まで訪ね、413年、スリランカ経由で海路山東省に帰り着いた。15年の旅だった。鳩摩羅什は既に亡くなっていた。  4世紀後半、前秦から順道、東晋から阿道という僧が相次いで高句麗に派遣され朝鮮半島で初の仏教伝播が記録される。4世紀後半から5世紀前半の朝鮮半島は、高句麗広開土王と百済、新羅、倭国が、覇を競うことが伝えられる時代で、日本には6世紀の半ば(538年説。552年説有)百済経由で経典と仏像がもたらされ、崇仏論争が起き、古代国家形成に弾みがついた。朝鮮では長く、直項五弦琵琶が郷琵琶(ヒヤンピパ)と呼ばれ、郷楽(きょうがく)(朝鮮固有の音楽)に属するものとされている。これは、上記のような4世紀に遡る、インド・グプタ朝―南北朝―高句麗・百済とつながるインド系仏教の伝播に伴う五弦琵琶の伝播を示し、唐代に曲項四弦琵琶が朝鮮に伝わった際に、「唐楽」の「曲項四弦」、「郷楽」の「直項五弦」とされたのだと思う。当然、日本にも朝鮮半島経由の「五弦琵琶」は伝わっていただろう。これで日本につながるインド系「五弦琵琶」の系譜は辿れたことになる。

● 玄奘はタリム盆地から北へ、李白の祖父も、中央アジア・キルギスにあった「碎葉城」を目指す

 これに対して、「琵琶(曲項四弦琵琶)」の東伝の第1段階に重要な役割を果たしたのはエフタルが第一候補である。中央アジアのイラン系騎馬民族エフタルが同じイラン系のクシャン朝を支配した五世紀中ごろから突厥に滅ぼされる567年まで、バクトリア、インドから中央アジア、タリム盆地を支配し、内陸アジアの東西交易路を抑えた時期があり、北魏に使者を送っている。エフタルはクシャン朝の社会制度は維持したと考えられており、この時期に、北伝仏教(大乗仏教)とともにペルシャ起源の琵琶(曲項四弦琵琶)が中国・北魏に伝わったと考えられる。外村氏が論文で紹介している通典の記事「北魏の宣武帝(四九九―五一五在位)の時代以降になって始めて胡聲(胡の音楽の曲調)が好まれるようになった。?への遷都の頃には、屈茨琵琶(「曲項」)、五絃、箜篌、胡鼓、打沙羅があり、胡舞が舞われた。・・・」等はこの辺の事情を伝えると考えられる。

玄奘三蔵の画像

玄奘三蔵

 そして次に、ササン朝ペルシャと挟撃してエフタルを滅ぼした(567年)西突厥(552-657年)がヒンズークシ山脈から中央アジア一帯を支配する。  玄奘は、629年、国禁を犯して唐の首都長安を出発、645年に経典657部や仏像等を持って帰還。インドでは、ナーランダ寺院で1万人の僧侶に交じり、インド各地を旅しながら6年を過ごし、16年間の旅の末持ち帰った経典の翻訳に、亡くなるまでの19年間を費やし、「大般若経」600巻、「瑜伽師地論」100巻、「成唯識論」10巻、「大毘婆沙論」200巻、「倶舎論」30巻など、合計75部、1335巻を漢訳。中国の訳経総数の4分の1を玄奘三蔵が翻訳したことになっている。玄奘は、法相宗の祖とされ、日本では興福寺と薬師寺が本山となっている。653年遣唐使の一員として中国に渡り、この玄奘に直接指導を受けたのが僧行基の師道昭(629〜700)。1942年、日本軍が発見した玄奘の頭骨は分骨され、さいたま市(旧岩槻市)の慈恩寺と奈良の薬師寺の玄奘三蔵院にも保管されている。日本に直接玄奘に学んだ僧がいたり、玄奘の遺骨が日本の寺院にあることはあまり知られていない。  玄奘は、鳩摩羅什や法顕が、タリム盆地の南ホータンからヒマラヤ・パミール高原を直登して南下、インドに渡ったのに対して、インドのナーランダ寺院を目指すのに、トルファン(高昌)経由で亀慈も立ち寄るが、タリム盆地からペダル峠を越え、天山山脈を北に上る。天山山脈中央にあるイッシククル湖西方に「碎葉城」があったからである。現在キルギス共和国トクマク市である。  玄奘が訪れた「碎葉城」は、当時チュルク系西突厥の王ヤブクカンの王庭(城)で、アムダリア川南のアフガニスタンまで支配していた。高昌国(トルファン)の鞠文泰はヤブクカンの長男に妹を嫁がせ、西突厥に服従し、姻戚関係にあった。玄奘は、当時唐を訪れたインドの僧から、鞠文泰と西突厥の関係について聞いており、鞠文泰は626年唐を訪れていた。玄奘は西突厥の「碎葉城」を通り大きく迂回することがインドへの安全な近道と判断した。隋唐の音楽の系譜に触れている「事物起原」(北宋)には「(琵琶は)碎葉国所献」と記している。芸能者のほか、仏教を初めゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教などの宗教家、交易に情熱を燃やすさまざまな民族が交錯している商都が「碎葉城」であった。  実は「碎葉城」の商人の中に、西突厥と隋唐の時代の背景を髣髴とさせる一人の人物がいた。唐代の詩仙、酒仙とも呼ばれた詩人李白の祖父である。李白の生い立ちはいまだに議論の余地があるものの、有力な説が「碎葉城」出身という説だ。中国の近代文学、歴史学の先駆者で、四川省出身の政治家、詩人である郭沫若氏が唱えた。李白の祖父は、西域と交易する商人で、玄奘が青年の頃兄と居所を転々として修行に励んでいた同じ隋末の戦乱を逃れて、長安からソグド人の多く住む西突厥の王庭「碎葉城」に移り住んだ。そこで701年李白が誕生し、4,5歳の頃に四川省に移り、父は「李客」(お客さんの李さん)と名乗ったという。李白は青年時代をここで過ごし、同じ、四川省を舞台に活躍し詩聖と呼ばれた杜甫とともに唐代の大詩人として並び称された。四川省というところは、隋末の戦乱や安禄山の反乱などによる唐代騒乱の時代に多くの人材が逃げ込んだ場所だった。四川省の北西は河西回廊。その先には、トルファン盆地、タリム盆地から天山山脈越えで、現在キルギス共和国になっているイッシククル湖や「碎葉城」につながっていた。玄奘もこの河西回廊を通って行った。玄奘は「碎葉城」について「諸国の商胡雑居せり」と記した。この商胡の中に暮らす李白の祖父と玄奘は「碎葉城」で出会っていたかもしれない。李白はまだ生まれていなかった。  このようにガンダーラがグプタ朝のインド人の支配となった4世紀から5世紀の100年間はインド人が西域への仏教伝播の中心となり、インド系の「五弦琵琶」が広がり、エフタルから西突厥にかけて5世紀から7世紀の200年間は、ガンダーラが再びペルシャ系・ソグド人の活躍する世界となり、仏教もペルシャ系の僧が中心となり、「琵琶」と言えばペルシャ系の「曲項四弦琵琶」を指す時代に転換したと考えられる。鳩摩羅什や法顕、玄奘、そして李白の祖父のケースを仔細にみると、シルクロードという人と文化の交流は、優勢な政治勢力の傘の下でルートを変えたものであることがわかる。文化が優勢な政治勢力に従属するというのは、時空を超えて普遍的なありようであって、幕末明治以降、欧米化した日本、戦後アメリカナイズされた日本の文化、芸能状況を見れば歴然としている。「シルクロード」は古代のロマンと言ったり、地形学的に語るのではなく、政治的歴史の中で語る必要がある。

その6に続く

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