第一章―アジアの音楽史「江戸歌舞伎はチンギスハーンがいなかったら誕生しなかった!?という物語」 その6
大野遼のアジアの眼
NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼
【曲項四弦琵琶はソグド人が生みだした】
―アジアを覆うペルシャ音楽の影響。曲項四弦琵琶には「月氏」のメッセージ?!―
ササン朝ペルシャの銀器装飾に描かれたバルバットとみられる楽器
隋唐以降の中国、奈良時代以降の日本で現代まで中心的な弦楽器となった「曲項四弦琵琶」。この楽器がペルシャ系であり、このことを証明する現存最古の資料が、アムダリア北岸で1930年代に発見された「アイルタム楽人像」であることはこの稿の第2回で記した。
● アジアを覆うペルシャ音楽の影響
フレットのないウード(↑上画像) 半月孔のある琵琶(↓下画像)
アムダリアを北に渡った楽人を示すこの彫像の女性が手にする楽器の元になったのは、古代ペルシャの楽器「バルバット」とされる。 このバルバットの直接の子孫となる楽器が、トルコやアラブで「ウード」と呼ばれている楽器である。「アイルタム楽人像」や日本の薩摩琵琶などの「曲項四弦琵琶」とトルコやアラブの「ウード」は、バルバットを共通の祖先に持つ「兄弟の楽器」となる。 世界の民族音楽を研究した小泉文夫・元東京芸術大学教授は「西アジアの音楽は、今日、イランの音楽、トルコの音楽、アラビアの音楽、そして、イスラエルの音楽と大きく四つに分けることができるが、その大部分は古代のペルシャ音楽に源を発しており、国際的な民族間の交流によって相互に音楽文化を発展させてきた」とし、トルコの音楽で使用される楽器や理論の用語に、ほとんどペルシャ語が使われ、アラブの音楽の多数の文献がその源をペルシャに求め、ペルシャの学者たちがアラビア音楽の成立に多大な功績を残している、と指摘している。象徴的に言えばササン朝ペルシャ以前から発達してきた古代ペルシャの音楽を構成する楽器群や旋法が、西方では、トルコ、アラブ世界といった西アジアの音楽の基礎に影響を与え、東方では、中国や朝鮮、日本の音楽を形成しているともいえる。 「今日西アジアでもっとも広く用いられているウード(日本の琵琶【曲項四弦琵琶;筆者注】、ヨーロッパのリュート、さらにギターへ発展していった楽器の祖先にあたる)は、アラビア人が工夫し完成させたものと考えられているが、その源流は、ペルシャのバルバットという楽器にある。・・・アラビアの代表的楽器も、実はペルシャに源を発しているのである」(小泉文夫「民族音楽の世界」) さらに歴史的には、7世紀に発生したイスラム革命の波がアジアを襲った際に、音楽的には、イスラム化した地域の音楽をペルシャ化したといったプロセスを刻み、インド(特に北インド音楽;ヒンドゥスターニ音楽)にも影響を与えた。日本人としてだけでなく、外国人で唯一、ヒマラヤの聖者故ナーダヨギ・D.R.Parvatikar師の教えを受け継いでいるシタール奏者伊藤公朗さんによれば、およそ700年前に、スルタンアッラーウディン(AD1296~1316) 王朝の宮廷音楽家だったアミールホスローという人が、インド古典音楽の楽器ヴィーナ(女神サラスヴァティが奏でている楽器)に改良を加え、その当時ペルシャから伝来したセターラという楽器の長所を取り入れて誕生したのが、北インドのヒンドゥスターニ音楽のシンボル楽器シタールである。
● アイルタム楽人像が作られたのは?
東アジアの曲項四弦琵琶普及の要となっているアイルタム楽人像が作られたのは、いつ頃であるのか、「アイルタム楽人像」の造像時期は重要である。残念ながらその年代は不明である。しかし、クチャ千仏洞などの西域仏教壁画や中国の雲崗、竜門石窟、隋書その他の古文献から、「曲項四弦琵琶」が東アジアで出現する時期が、中国の南朝では6世紀の半ば(梁の簡文帝549-551)、北朝では、北魏宣武帝(499-515)以降の西域音楽の流行に伴うものであったように、5世紀後半からであったと考えられている。これはエフタルがガンダーラをグプタ朝から奪った時期と重なるのである。
中国南北朝末期北斉の仏教彫刻↓
↓典型的唐代曲項四弦琵琶
バルバットとその直系の子孫ウードと、アイルタム楽人像と中国、日本の琵琶の間には違いが2つある。1点目は、バルバットやウードには、音の位置を示すフレットがないのに対して、中国や日本の「曲項四弦琵琶」にはフレットがあるということである。アイルタム楽人像は棹の部分が欠けており不明だが、フレットがあったと想像する。2点目は、これがフレットがあったということを想像させる理由でもあるが、曲項四弦琵琶には、「半月」状の共鳴孔を二つ持つということである。この二つの半月孔は、中国では唐代以降失われ、演奏法も撥を使った弾奏の代わりに、指で弾く奏法に変わったのに対し、日本ではアイルタム楽人像以来の撥で叩く演奏法が今日まで継続され、アイルタム楽人像の弾く琵琶の形状も半月状の共鳴孔も残したままである。私が、薩摩琵琶や雅楽の楽琵琶は、アジアで最もクラシックな楽器と呼ぶ理由である。 私の友人である、イランの伝統楽器を弾きこなし、伝統的な歌謡アーヴォーズを歌うシャー・サボリ・ハミドさんによると、もともと古代ペルシャ音楽では、弦楽器にはフレットがないのが普通の状態という。 イラン・ペルシャの音楽は、音律やメロディによる音楽の森といった体系を構成しており、その中で特に7つの大樹が、それぞれ特色ある音律を基礎(大樹の根)にした曲想によってこのペルシャ伝統音楽の楽典として継承されている。7つの大樹の一つ一つは「ダストガフ(手の場所)」といわれ、(1)シュール(気持ちが高揚する旋律の意味で曲に雰囲気がある)(2)ナヴォ(あるいはナヴァで悲しいことあるいは旋律ともいわれる)(3)セガフ(3つの場所)(4)チャハールガフ(4つの場所)(5)ラストパンジガフ(真の5つの場所)(6)マフール(メジャーな場所)(7)ホマユンーと呼ばれ、全体で「ハフトダストガフ」と呼ばれる。演奏者は、この7つの大樹の間を、枝から枝へ渡るように、自由に曲想を変えて、音楽の森を歌い歩く吟遊詩人であり、この集団をダルヴィシュと呼んだ。この瞑想する演奏者にとっては、音を規制するフレットは邪魔なものだというのである。 このフレットは何時誕生したのだろうか。私は、妄想仮説の一つとしてこう考えた。グプタ朝で、「五弦琵琶」を芸術的音楽表現とは異なる理由で、仏教的行事でより簡単に使用することになった時に最初に導入された。その後、エフタルがクシャン朝の地域を支配するようになると、バクトリアからソグディアナ地域にいたペルシャ系の仏教僧と楽人は、ペルシャ系の弦楽器バルバットを元にフレットと半月孔二つを付けた曲項四弦琵琶を編み出し、大乗仏教の行事で演奏するようになった―。 ここで、ペルシャ系の人々について触れなければならない。 ペルシャ系の人々は、元アジアの北部草原地帯にいたアンドロノヴォ人が起源とされる。紀元前3千年のことである。この項は別途詳述するとして、ペルシャ系の人々はかつてアジア大陸に広く展開していたということだけ記しておく。今回の稿で必要なことは、2世紀半ばに、大乗仏教を普及する前提となる仏典を結集したクシャン朝のカニシカ王に触れて、ペルシャ系の人と文化を記す。クシャーナ朝はカニシカ王の時に最盛期を迎え、ガンジス川中流域、インダス川流域、さらにバクトリアなどを含む大帝国となり、北西インドのペシャワールを首都とし、西方パルティアと戦い勝利し、東方はネパールのカトマンズ、ガンジス川のパータリプトラまで支配を拡げた。クシャン朝が東西交易の要を押さえ、繁栄し、仏教を保護し(カニシカはほかの宗教も保護しているがこの稿では仏教に絞る)、各地に仏塔を建造し、グレコバクトリアの伝統を反映したガンダーラ様式の仏像を造った(ガンダーラ美術)ことで知られる。 クシャン朝は、中国が秦帝国の頃、モンゴル高原から黄河西域、四川省から河西回廊地域まで展開していた「月氏」の後裔。「月氏」は、匈奴に追われ、先住民のサカ族を移動させ中央アジアのキルギスにいたところを、さらに匈奴に派遣された烏孫に討たれバクトリアに逃れ、アムダリア川(オクサス川)の北ソグディアナに落着いて「大月氏」と称し、アムダリアの南のトハリスタン(大夏)を征服。5翕侯(きゅうこう;部族)を置いて一帯を支配していたが、紀元前後に、その中から貴霜(クシャン)翕侯がほかの4翕侯を滅ぼして誕生したのがクシャン朝であった。 中央アジアには、唐代の中国で「昭武九姓」と呼ばれ、バクトリアの北ソグディアナを拠点とするソグド人がいたが、彼らも「月氏」の末裔であった。ソグド人は紀元前3世紀から2世紀にかけて、祁連山昭武城(今の中国甘粛省張掖市臨沢県)に住んでいた。ソグド人は、康国(サマルカンド)、安国(ブハラ)などオアシス都市を形成し中国との交易に従事した商人集団であった。 要するに、バクトリアからインドまで支配したクシャン朝の支配層と、後には、エフタルや西突厥の支配下で交易に従事したソグド人は同じ「月氏」の末裔であった。 現代で言えば華僑のように、同じペルシャ系の商人集団として、クシャン朝からササン朝ペルシャ、エフタルから西突厥へと支配層が変わっても、自然にササン朝ペルシャで使用されていたバルバットという弦楽器を、仏教的儀式の演奏楽器として導入し、「月氏」の後裔であるソグド人が、仏僧となり、楽人となり、仏教伝播のスポンサーとなって大乗仏教東漸の主役になった。これが曲項四弦琵琶東方伝播の秘密であった。 仏教伝播というのは、宗教的行為であるが、宗教は普遍的に国家や商人などの経済的スポンサーをバックに行われてきた。ソグド人のオアシス都市、中国内外のソグド人集落などで交易に従事するソグド人商人がそのスポンサーとなり、大乗仏教の持つ護国教的側面を北魏、隋唐の支配層も利用しながら、持ちつ持たれつの関係で、仏国土を支えてきた歴史は否定できない。 ペルシャ学の大家故伊藤義教氏によれば日本に残るペルシャ人の足跡は数多いようだが、安如宝も忘れてはならない人である。中国・揚州の大明寺にいた鑑真を天平14年(742)、元興寺から派遣された普照と栄叡が訪ね、鑑真が授戒僧として日本へ渡る承諾を得る。5度の難破を超えて来日した鑑真と一緒にいたのが安如宝。彼は揚州のソグド人集落にいたもので来日後得度し、唐招提寺金堂の建築などに活躍、後に唐招提寺の住職になるが、彼が造像したと考えられる金堂薬師如来立像の左掌から銅銭三枚が見つけられている。誕生まもない子どもに口に蜜を含ませ、手に銭を握らせ膠で貼り付けるのが商人ソグド人の習慣。安如宝晩年の仏像建立で、ソグド人の本懐が露呈した形だ。安如宝は、日本に戒律を持ち込み大乗仏教の基盤を整えたのがソグド人であるとのメッセージを込めたと想像したい。 私は、ソグド人たちが、ササン朝ペルシャ以来のバルバットを仏教的儀式に使用する曲項四弦琵琶に仕立てるに際し、グプタ朝の五弦琵琶で使用されたフレットに加えて、敢えて「三日月」の共鳴孔をバルバットに加えたのではないかと想像する。それは、ソグド社会が捧持する大乗仏教を盛り立てる琵琶(曲項四弦琵琶)が、大乗仏教も含めてソグド社会のものであることをメッセージとして送るためであった。「月=三日月」は、「月氏」のトーテムとも考えられるからである。アイルタム楽人像の弾く琵琶の成立時期も自ずから限られてくる。それはササノクシャン朝からエフタルの支配に移行する5世紀前半の頃であったろうか。
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