第一章―アジアの音楽史「江戸歌舞伎はチンギスハーンがいなかったら誕生しなかった!?という物語」 その7
大野遼のアジアの眼
NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼
【日本におけるペルシャ系曲項四弦琵琶の音楽史】
―天皇、公家、武士、庶民の心を掴んだソグドの楽器。藤原貞敏と人康(さねやす)親王がキーマン―
中国・唐代に玄宗皇帝や楊貴妃が琵琶を好み、「琵琶は皇帝の楽器」と伝えられていると紹介したが、日本でも古くから琵琶は「天皇の楽器」としても語られる事が有り、「玄上」(村上天皇)、「玄象」(仁明天皇)、「牧馬」(醍醐天皇)、「元興寺」(後冷泉天皇)と呼ばれた琵琶の名器が伝えられ(丸括弧内は所有者)ている。 古くは古墳時代の埴輪で琴を弾く女性の像があったり、木製の琴が出土したりなど、暮らしの中に音楽があったことが伺われるが、古代に天皇が演奏したのも琴(和琴)であった。雄略天皇は吉野離宮で舞姫に合わせて琴を引いた際に「神の御手もち 弾く琴に」と歌った。元々琴は、神を呼び出し託宣を聞くための音楽であると認識されていたようである。 アジアの西端に位置するギリシャの神話では、オルペウスという竪琴の上手な神様は、野獣や木、岩までもが恍惚と聞き入るほどの腕前で、木は歩いて近寄り、岩はなごんで冷酷さを失うほど。黄泉の国に行った(亡くなった)妻エウリュディケ探しに出かけ下界で竪琴を弾き歌うと、幽霊たちが涙をし、一度は地上に帰ることを許された──という挿話がある。日本でも、日本神話による有名な挿話によれば、大国主命が妻となるスサノオノミコトの娘を背負って逃げ出す際に太刀と弓と一緒に「天詔琴(あめののりごと)」を抱えていたと記されているように、やはり宗教的「詔り言(琴)」に結びつくような、音楽のあり方が古来からあった。 日本も西欧文化も神話の昔に遡って、人間が音楽・芸能のもつ力を高く評価していることを示している。私の知人である北インド・ヒンドゥスターニの楽器シタールの演奏家・伊藤公朗氏は、彼の著作で現代の二つの挿話を紹介している。彼の楽器の師が奏でるビーンの音色に耳を傾け、寄り添うようにしている鹿のエピソード。あるFM曲ラジオ番組に出演してシタールを演奏した際に、終了後ミキシングルームのミキサーが「アナライザー(音を波長で表示する機材)を見ていれば、それが肉声なのか楽器なのか一目瞭然。ところが、あなたの弾いたシタールという楽器の音が、なんと人間の肉声とまったく同じ波長を示し続けていた」と聞かされたことを紹介している。音─音楽には、自然との境界にあって神話的世界に誘うような不思議な力がある。人間はいつの頃から「楽器」というものを弾き、打ち、吹き奏で、踊るようになったのかについてはいろいろ考え方があるようだ。しかし、私がこの20年間お付き合いをしている北方シベリアの素朴な暮らしと接していると、「自然の音に耳を傾け、それを表現しようとする」ことが音楽の起源ではないかと直感的に思う。これが音楽を「天地感応」型のツールとして、国家や民族、宗教を支配するリーダーたちの間で「皇帝の楽器」=「帝器」として受け入れることが好まれてきた理由になったと思う。
● 琵琶留学した藤原貞敏。秘曲と名器を持ち帰る
日本では、仏教という外来の宗教的行事に伴い「三宝(仏法僧)を敬うに蕃楽を用いよ」(聖徳太子)とされたのをはじめとして、中国唐代の楽部を真似て雅楽寮(うたまいのつかさ)が大宝令(701年)に設置され、楽師を養成し、全国の国衙や国分寺等での儀礼芸能として普及した。大陸から流入した音楽としては古くから新羅楽、百済楽、高句麗楽、散楽・伎楽(呉楽)、唐楽、林邑楽、渤海楽があり、752年東大寺大仏開眼法要の際に数百人の楽人舞人によって執り行われるまでに高揚し、平安時代に入り、雅楽は管弦、左方、右方の二舞楽に整理された。
上記のように琵琶の演奏は、国家的行事として行われることはあったが、天とつながる帝王が習得する楽器は、10世紀の半ばくらいまでは琴が中心であったようだ。天皇自身が演奏することは、空海を取り立てた平安時代の初期嵯峨天皇(809〜823)が、琴や笛、琵琶が巧みであったと伝えられている。この時代に遣唐使として音楽留学した藤原 貞敏(807〜867)は837年入唐し、長安で琵琶の名人劉二郎から教えを受け、その才能を見込んだ劉は娘を与え、秘曲「啄木」「楊真操」「流泉」という琵琶譜、名器の琵琶「玄象」「青山」(共に仁明天皇833−850の御物)を持ち帰った。この「玄象」「青山」については、平家物語に語られているところによれば、「巻第七青山之沙汰」に、藤原貞敏が帰国に際し海が荒れ、もらった名器三棹のうちの一つ「獅子丸」を海に沈め、龍神に供えたという。藤原貞敏は、琵琶の祖とされている。琵琶は、雅楽の琵琶(楽琵琶)だけでなく、平安貴族のたしなむ琵琶(源氏物語絵巻の琵琶)として使用されるようになった。 しかし天皇が琵琶を帝王の楽器として盛んに使用したのは、平安末から鎌倉時代、中世南北朝の頃で、特に北朝の持明院等の歴代天皇の間では藤原貞敏の持ち帰った秘曲を妙音堂で継承することが行われ、鴨長明が琵琶の秘曲「啄木」を演奏して非難を受け後鳥羽上皇から下問され、隠遁生活に入るということも起きている。しかし、南北朝から室町時代にかけて荘園領主体制から守護大名体制へ移行し、公家や朝廷を中心とした音楽の体系も、武家社会中心の新しい芸能創世の時代を迎え、雅楽、和歌から能楽、連歌の誕生へ移行し、琵琶も、公家や朝廷の琵琶から、当道座の琵琶法師の語る経琵琶(盲僧琵琶)、平家琵琶、浄瑠璃語りの琵琶として庶民のあいだで受け入れられるように変わっていく。これら各種の琵琶は全てペルシャ系曲項四弦琵琶の音楽史であった。
● ソグド人の琵琶を盲僧が継承
当道座の琵琶法師集団の誕生では伝説がある。藤原貞敏入唐の頃、仁明天皇の第四王子人康(さねやす)親王が、天安二年(858)に病のため失明され、翌貞観元年(859)に出家し、畿内各地より家柄人柄の良い盲人を集めて親王自ら管絃の技芸を伝えたことが、後の琵琶法師の起源となったと伝える。また親王は、大隈・薩摩・日向にあった御領地よりの貢米を盲人に分かち与えるとともに、自らの亡き後もこの施行を続けられるよう清和天皇に奏聞され勅許を得られた。親王薨去ののち十数年を経て、兄君光孝天皇より人康親王の御霊に「天夜の尊」の神号が贈られ、「四宮」の社が創祀された。その後も天夜の尊の御神恩を忘れずこの社に参集する盲人たちに、親王の母君の奏請により「検校」「勾当」の官位が勅許され、これが当道座の職階である四官・十六階・七十三刻の始まりとなったーという。宇多天皇の時、小倉百人一首の逢坂の関を歌った和歌で知られる蝉丸も琵琶の名手として知られるが、醍醐天皇の王子とも言われるのでこの当道座に属していたかもしれない。明治の初めまで千年にわたって続いた盲人音楽集団当道座のいわれである。 その盲人集団が平家物語を琵琶の伴奏で語り始めたのは、承久年間、平家が壇ノ浦で滅びた寿永四年(1185)から、ほぼ30年たった頃、源平の戦の記憶がまだ覚めやらぬ時期である。作者とされる行長については、諸説あるが、行長が剃髪して比叡山に入った後、天台座主慈鎮和尚の扶持を受けながら平家物語を作り、盲僧の生仏に語らせたのが始まりだとしている。 「平家物語」については「徒然草」(吉田兼好 )に紹介されている。「・・・学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚(じちんおしょう)、一芸ある者をば、下部までも召し置きて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持(ふち)し給ひけり。この行長入道、平家物語を作りて、生仏(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。・・・」(226段)琵琶法師・生仏が、当時のほかの琵琶法師のあいだに広めたというのである。
盲僧琵琶や盲人音楽集団隆盛の功績では、実際には、播州明石の領主で失明の後琵琶法師となった明石覚一(1299−1371)が挙げられる。覚一は自らの屋敷に当道座を開き、江戸時代につながる盲人音楽集団を組織する検校制度の基礎を築き、覚一本「平家物語」をまとめて琵琶を演奏して平曲を語る平家琵琶のスタイルを確立した。足利氏出身(足利尊氏の従弟)であったことから幕府からも庇護を受け、中世から近世にかけて存在した男性盲人の自治的互助組織である当道座を開き、盲人の地位向上や生業の安定、師匠から弟子へ技能を継承する教育機関としての役割も担っていた。こうして仏教伝来とともに「蕃楽」として日本に伝わったペルシャ系の曲項四弦琵琶は、701年に設置された「雅楽寮」の「雅楽」の楽琵琶として日本全国の国分寺、国衙で演奏されるとともに、のちに後鳥羽天皇や後醍醐天皇が「帝器」として藤原貞敏が持ち帰った「啄木」を秘曲として演奏したり、朝廷の雅楽の琵琶、平安貴族の琵琶から琵琶法師の琵琶まで、古代律令体制という王朝社会から武家社会の武家や庶民の間での音楽芸能の中心的棹弦楽器として演奏され続けた。ペルシャ起源のフレットと「三日月」の共鳴孔というソグド人のトーテムを刻み込んだ曲項四弦琵琶は、5世紀前半に誕生してから1000年後、平曲を語る盲目の琵琶法師の手に握られるようになったのである。 そしてアジアの音楽史、日本の音楽史の最後の革命の場面で琵琶法師が語るようになったのが、「浄瑠璃姫物語」であった。 鳥越文蔵元早稲田大学坪内博士記念演劇博物館館長によると、「文献上での浄瑠璃なる語は「いつものしやうるり御ぜん ムシ などをかたられ候はばよく存じ候」(1475年7月「実隆公記」背紙<サネタカコウキ・ハイシ>)とあるのが最も早い」という。今から535年前のことである。 平家物語などの戦記物を琵琶を弾きながら語っていた琵琶法師が、新しいジャンルとして語るようになった「浄瑠璃姫の物語」は、愛知県岡崎市・旧三河国矢作(やはぎ)の長者の姫君(浄瑠璃姫)と、源氏の御曹司・義経の恋物語。一夜の契と分かれて奥州に向かう義経は蒲原宿(現静岡市)で重い病になり、浜辺へ遺棄される。源氏の氏神である八幡大菩薩のお告げによって義経の危機を知った浄瑠璃姫は浜へとたどり着き、義経の亡骸(なきがら)をかき抱いて蘇生(そせい)を祈願。祈りは届き、息を吹き返した義経は、身分を明かし、涙ながらに姫と別れ、再び奥州を目指し旅立つ−という物語。平曲を語ってきた当道座の琵琶法師の中から、この「浄瑠璃」を語るものが現れ、「小座頭あるに 浄瑠璃をうたはせ一盃にをよぶ」(1531年8月)「宗長日記」)など求めに応じていた。 琵琶法師が浄瑠璃姫物語を語る時代の最後に琵琶を弾いていたのが澤住検校であった。「京師ニ二人ノ瞽者(こしゃ=盲目の人)アリ。滝野、澤角(さわすみ)両検校トモ弦歌ヲヨクス。御曹司ト浄瑠璃(女)トノ恋慕ノ軌跡ヲ『十二段』ニ書キ著シ、扇ヲ拍(う)って、之ヲ人ニ語ル」(正徳2年(1712)刊の寺島良安著「和漢三才図会」(わかんさんさいずえ)=明の「三才図会」にならって、和漢古今にわたる天文・土地・山水などの事物を、図を入れて漢文で解説した百科事典。105巻81冊ある。原文は漢文。) この二人は浄瑠璃に新境地を開いたとされている。滝野検校は「浄瑠璃の祖」。この稿の第2回で紹介した澤住検校は「浄瑠璃三味線の祖」とされ、江戸に入って誕生した文楽で野澤、竹澤、鶴澤など、三味線演奏者の姓に「澤」の字を使用し、「浄瑠璃七功神」の功績を継承している。浄瑠璃姫物語を語る伴奏に使っていたペルシャ系の琵琶(曲項四弦琵琶)の代わりに、1562年(永禄5年)に琉球から堺に着いた交易船に載っていた「三線」を、持ち替えて、琵琶の撥で三線を弾き、浄瑠璃三味線による浄瑠璃語りを始めたからである。澤住検校が持ち替えた「三線」はどのように誕生したのか。ペルシャ系の「四弦」の音楽史から、アジアのもう一つの「三絃」の音楽史を紹介する。
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