第一章―アジアの音楽史「江戸歌舞伎はチンギスハーンがいなかったら誕生しなかった!?という物語」 その8
大野遼のアジアの眼
NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼
【東西音楽文化の系譜】
―「西洋クラシック音楽」から「邦楽」へ。真の文化変容の鍵はアジアの音楽史に潜んでいる―
「三弦」「三味線」の物語の一端を紹介する前に、「三味線」を中心とする日本の伝統音楽の現状把握について記す。私はかつて文化庁が全国公立文化施設協会に設置した「芸術情報プラザ」のトータルアドバイザーを10年ほどつとめていた。1980年代に全国的に建設ラッシュとなった劇場型施設を地域の文化の中核的拠点として活用するにはどうしたらよいか、という視点で、毎年アートマネジメント研修会を開催し、全国の文化施設や文化担当行政職員を集めて情報を提供する仕事であった。私は、西洋クラシック音楽、演劇、舞踊、邦楽、舞台技術などのアドバイザーに交じって、都道府県、市町村を訪ね、地域文化の振興に必要な模索的作業を続けていた。その中で、ずいぶんと多くの課題が日本にはあることが分かったが、アジアとの関わりでは、特に邦楽がアジアとの系譜を失っていることが顕著で、アジアの音楽の一部であることの認識が希薄というより皆無に近いことがずっと気になっていた。その原因は、教育にあり、日本の近代化の過程で「脱亜入欧」「文明開化」「欧米化」とともに失われたジャンルの一つであると考えざるを得なかった。 日本の幕末明治以来の百年は、中央政府による音楽教育は「欧米化」に邁進し、「蛍の光」「蝶々」「仰げば尊し」など欧米の歌曲や賛美歌から文部省音楽取調係が「文部省唱歌」として教育に導入し、鹿鳴館的文明開化の風土の中で今日まで、「西洋クラシック音楽が学ぶべき芸術」として教えられ、合唱、吹奏楽、バレエと子どもたちの音楽風土が醸成された。その成果は、海外で活躍する多くの作曲家、演奏家、指揮者、舞踊家がこれを証明している。しかし一方で、永井荷風は大正二年から三年にかけて著した「江戸芸術論」で、現在でも通用するテーマについて考えを述べており今なお考慮されるべき値打ちを有している。「新しき国民音楽いまだ起こらず、新しき国民美術なほ出でず、唯だ一時的なる模倣と試作の濫出を見るの時代においては、元よりわが民族的芸術の前途を予想する事能わざるや論なし。余は徒に唯多くの疑問を有するのみ。ピアノは果たして日本的固有の感情を奏するに適すべきや。油画と大理石とは果たして日本特有なる造形美を紹介すべき唯一の道たりや。余はあまりに数理的なる西洋音楽の根本的性質と、落花落葉虫語鳥声等の単純可憐なる日本的自然の音楽とに対して、先づその懸隔の甚だしきに驚かずんばあらず。…」「余は決して邦人の制作する現代の油画を嫌ふものにあらず、然れども如何にせん、歌麿と北斎とは今日の油画よりも遥かによく余の感覚に向かって日本の扶助と日本風景の含有する秘密を語るが故に、余はその以上の新しき天才の制作に接するまで、容易に江戸の美術家を忘るること能はずといふのみ。日本と市の概観と社会の風俗人情は遠からずしてまったく変ずべし。痛ましくも米国化すべし。浅ましくも独逸化すべし。然れども日本の気候と天象と草木とは黒潮の流れに浸されたる火山質の島嶼の存する限り、永遠に初夏晩秋の夕陽猩々緋の如く赤かるべし。・・」と、日本の自然風土に適った音楽の未来に警鐘を鳴らした。 現在、地域では、伝統文化、芸能の継承者は引き細り、保存会や子供会の熱心な親たちの努力で夏祭りのお囃子が継承されている。しかしこの子供たちが学校で学ぶ「笛」は地域の夏祭りや獅子舞などで演奏する篠笛ではなくリコーダーや鍵盤ハーモニカなのだ。三味線文化などは、国立劇場、国立文楽劇場、国立能楽堂のほか、文化庁のアウトリーチ事業で学校公演等に取り組む日本音楽集団や津軽三味線、浄瑠璃の公演事業などもあるが、砂漠に水を撒いているような効果にとどまっており私の住む愛川町まで届いていない。 中央政府主導の「音楽教育」と「地域の芸能」の溝は深く、まだ埋まってはおらず、特に邦楽の背景にあるアジアの音楽を視野に入れていないことも変わっていない。その根幹において教育戦略の抜本的改革が必要である。 とはいえ、平成14年以降、この10年間は、音楽教育の革命が起き、地殻変動ともいうべき音楽の土壌開拓が進行している。平成14年の新学習指導要領で、西洋クラシック音楽優先の音楽教育を見直そうと提案したからだ。鹿鳴館的音楽風土転換の初の宣言であった。
▼変わる音楽教育
平成14年の「中学校新教育課程の解説―音楽」(以下「解説」)ではまず、世界各地の伝統文化にかかわる理解の仕方について、それまでの「民族音楽」という呼称は、西欧音楽に比べて一段低い音楽という理解を助長するとして今後は「世界の諸民族の音楽」と呼んでいくと明言。「世界の諸民族の音楽は相対的な価値を持つ」という「文化相対主義」の立場を掲げ、初めて文化というものの理解の原点を示した。 さらに「解説」では、「伝統音楽」を、文化相対主義を前提とした日本と地域の音楽教育の基盤と位置付けて、過去から連続して今日までつながってきている優れた文化的価値を基盤にすることで、日本固有の精神文化となりうる深まりのある音楽教育が出来ると、堂々とうたっている。 ユーラシアとのかかわりについても明快に触れており、伝統音楽の理解の仕方について、日本の音楽文化の特性である外来文化の伝播の観点から理解するように勧めており、「わが国はユーラシア大陸東側という地理的条件が織り成す、進んだ外来文化を流入させては有益な内容を咀嚼吸収させる繰り返しであったという歴史的な文化受容の特徴を認識する必要がある」と明快な理解を持ち、さらに「今日までの音楽教育に対する意識は、明治期の鹿鳴館に代表される欧米文化の模倣追従の姿を残してきている。この意識も西洋に目を向け理解に努めたという意味では、大きな意義があった。しかしこのことを踏まえつつ、これからはさらにわが国や郷土の伝統音楽、世界の諸民族の音楽とを複眼的にその価値をとらえてすすめていくことが大切である。そうすればわが国は世界の中で類をみない多彩な音楽文化を包含する国になるからである」とここでも文化相対主義を強調。さらに今後の音楽教育の視角の一つとして「文化変容」を掲げ、「今日言われるわが国の伝統的な文化も、各時代に外界から流入させた文化を一時は異質なものとして同居させ、基層文化のフィルターを通すことで新たな独自の文化へ変容させるという特徴をもっている」と方向付けを行った。こうして、結論として「以上文化相対主義を基盤として、この三つの視点(「伝統文化」「外来文化」「文化変容」)から音楽をとらえ、そのよさや豊かさに気づかせながら生涯にわたって音楽を愛好する心情を育てる必要があるのである」と提案している。 東南アジアのあるコンサートで日本人演奏家が好評を博し、「クラシックをやって」と繰り返されたアンコールに、最後まで「クラシック音楽」を「西洋クラシック音楽」と考えて演奏を続け、「日本の伝統音楽」への要望であったことを理解できなかった、というミュージシャンはさすがに今では少なくなったと想像したい。しかし「日本のクラシック」として何が浮かぶか心もとない現状に変わりはなく、日本の伝統音楽と西洋クラシック音楽の間に生じている隔離は深刻である。特に、日本の伝統音楽をアジアの音楽の一部としてみるという点では「複眼的にその価値をとらえてすすめていく」土台が無いに等しい。日本では田辺尚雄、岸辺成雄、林謙三、伊福部昭、小泉文夫、三木稔などがアジアや日本の音楽に光を当ててきたが、系譜論では岸辺成雄、小泉文夫が、日本の音楽やアジアの音楽の基層解明に手がかりを与えたものの、日本の音楽をアジアの音楽の一部として創造が始まるという「文化変容」の土台は未だない。 「欧米文化の模倣追従」を止めて「世界の諸民族の音楽」を「複眼的」に見ることを教え始めて10年が経った。全国の小中学校で、「バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン」だけでなく、日本の和太鼓、三味線を授業の一部に取り入れる時代になった。教える側の教師が「土台」である日本やアジアの音楽が視野に無い以上その教育効果も知れているが、「西洋クラシック音楽が芸術」とだけ考えていない子供たちが現れた10年と考えるとその意味は大きい。当時(平成14年)中学校3年生であった生徒は、大学を卒業して新教員となる頃だ。こうした若い教員が教育現場を変えていくことに期待するしかない。「鹿鳴館」的精神風土を脱出し、荷風が指摘した「模倣と試作の濫出」を超えた「芸術表現」が現れることこそが時代の要請であり、今後の文化変容の土台としてアジアの音楽を視野に入れることが懸案であると考えられる。
● 東西音楽文化の系譜
話を三味線の件に戻す。邦楽への教育が希薄で、邦楽界に身を置かない人が三味線を知るのは、高橋竹山に始まる津軽三味線によるところが大きい。盲目の門付き芸人として差別され、「津軽のにおい(風土)を音にする」と発信力のある演奏で、労音や東京・渋谷の小劇場渋谷ジァン・ジァンで若い人の間にファンを拡げ、力強い表現力に注意を惹き、若い演奏家が陸続と全国各地で生まれたことは、日本の三味線文化の新しい伝統となった。 しかし、上記のように平成14年まで学校教育では、邦楽や津軽三味線の音楽は教えられることはなく、私たちが子供の頃から耳にした三味線は、蛇、猫、犬の皮を張った何かおどろおどろしい世界を見るような話がつきまとい、長じて三味線の野太い響きや繊細で絢爛とした表現に耳慣れてきた頃、「三味線は元々ニシキヘビの皮が貼ってあり、南方起源」だということで全て語られたようなことでとどまって、おどろおどろしい世界の向こうには望洋たる南方の世界を伺うことで済まされてきた。 この15年ほどアジア・シルクロード音楽フェスティバルを開催するようになって初めて、三味線がアジアの音楽史を理解する鍵を握っていることを理解するまでは、三味線は私にはつかみどころのない「日本的楽器」でしかなかった。音楽教育で教えられた芸術である「西洋クラシック音楽」に比べて、日本的ローカルな楽器に興味は起きにくかった。 そして、津軽三味線が、清元や義太夫の三味線に比べ、アジアの音楽史で最も新しく誕生した最後の姿であり、「三味線の誕生」(16世紀の後半・大阪)と総合舞台芸術「江戸歌舞伎」の形成が、西洋における「バイオリンの誕生」(16世紀の後半・北イタリア)とオーケストラとオペラの形成と時期を同じくすることを知るようになって、「邦楽」と「西洋クラシック音楽」―東西音楽文化の系譜に興味が湧いてきた。上記「解説」が指摘するように邦楽は「外来文化の伝播の観点から理解する」必要があるのであり、鍵はアジアの音楽史にあったのである。
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