第二章―アジア源流「〝幻の河オクサスから世界は始まった〟という物語」 その1

大野遼のアジアの眼

NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼

【モ中津川に潜む壮大な《太陽》と《水》の物語】

―東大寺・二月堂と大山寺・八菅山を結ぶ地下水脈伝説、背景に東大寺人脈―

江の島の画像
江の島妙音弁財天

江ノ島の洞窟から中津川地下洞窟を歩いた弁財天

 第一章ではアジアの音楽史を通してアジアを見た。第二章では、私が住む神奈川県愛甲郡愛川町中津の自宅(借家)の目の前を流れる清流・中津川を眺めながら、アジアの源流を考えることにする。  初夏を迎え、既に多くの花が満開の時を過ぎ、緑濃く、川向こうの八菅山は、冬の静逸な木立にたっぷりとした緑の衣装をまとい、森に変身している。八菅山は、大山を最高峰とする東丹沢の東端に位置し、山々がたっぷり溜め込んだ水を少しずつ吐き出し、中津川の水源の一つになっている。  私が引っ越してきてまもなく、この中津川に興味深い伝説があることを知った。

塩川滝の画像
中津川の画像

自宅前を流れる中津川と上流の塩川滝

 「中津川の川底には洞窟があって、江ノ島の洞窟とつながっている。ある時江ノ島の弁財天がこの地下洞窟を歩いて角田・戸倉の淵まで来て、疲れたので地上に出て一休みし、疲れが取れたのでさらに上流にある塩川滝の上にある江ノ島の淵まで行った。近隣の人々は、弁財天が地上に出た淵を弁天の淵、淵の横の小山に弁天社を構え祀った」  また塩川の滝には「滝壺は江ノ島の洞窟とつながっており、ある時塩川滝に訪れた人が落とした弁当箱が、江ノ島の洞窟で見つかった」などの伝承も伝えられる。  この中津川地下洞窟の伝説は、江ノ島の洞窟―中津川―塩川滝が、地下の洞窟でつながり、弁財天が地下の洞窟を歩いて、中津川上流の滝を訪ねる物語であるが、川の神、水神が、地下水路(水脈)を通って、水源を訪ねる物語となっている。  私はかつてメディアの記者として奈良県に3年間勤めた事が有り、地下水脈の物語が、東大寺・二月堂にもあることを思い出した。また弁財天の元々の由来となったインドのヒンズー教の神様サラスヴァテイが水無川(地下水脈)であり、中央アジアで誕生したゾロアスター教の水神アナーヒターも地下水脈であったことに思い至り、一気に中央アジアと中津川をつなぐ物語が眼前に広がった。この稿の第二章は文字通り「アジアの源流」がテーマである。

● 東大寺と大山・八菅山を結ぶ奈良時代−平安時代の仏教界リーダーの人脈

 私の家から中津川をはさんで対岸にあるこの八菅山の山頂に、現在八菅神社本殿が祀られている。明治元年の廃仏毀釈で密教修験宗の光勝寺が廃寺となったためだ。神社の本殿には、首のとれた本地仏(阿弥陀仏、薬師如来、十一面観音など)が放置されたままだという。しかしそこに至る石段の左下には使われなくなった護摩堂が建ち、その前の広場では3月28日、護摩供養火生三昧の修法が現在でも継続されている。修験者が唱えているのは観音菩薩を念じ悟りの境地を目指す般若心経であった。廃仏毀釈にもかかわらず、八菅神社の仏教(密教)的修法は続いている。  新編相模国風土記稿によれば、八菅修験は、八菅山の宿坊(標高252m)を出発して、中津川沿いの幣山、今は砂利採取で失われた館山、平山、そして塩川滝から東丹沢に峰入りし、経ヶ岳(663m)を経由し、東丹沢の最高峰大山(1252m)に至る30か所の行場を35日かけて回峰修行する。  八菅修験の継承者である矢後忠良さんによれば、八菅神社の奥の院は、八菅山の西方(西山)の経ヶ岳であるという。経ヶ岳は、弘法大師空海が華厳経を納めたという巨岩伝説から名づけられた。回峰修験のルート周辺には、仏果山、華厳山など仏教(密教)修験に由来する山名を冠した山々もある。明治元年の廃仏毀釈で「神社」となった形ではあるが、もともと神仏混淆を内容としながら八菅神社の歴史はほとんど仏教(密教)的修験の精神的センターとして歩んできた。  八菅山の名称の由来は、伊豆に流された役行者に遡り、役行者が703年東国で最初に訪れた場所になっている。役行者は説話集日本霊異記に記された奇想天外な活躍で知られるが、続日本紀にも記された実在の在家仏教信者で修験道の祖。709年には、聖武天皇から請われ東大寺大仏殿の造営で全国を勧進行脚し力を発揮した行基が訪れ八菅山寺を開基したと伝えられる。八菅山から5番目の行場である塩川の滝には、神亀年間(724〜27)に、のちに奈良東大寺の別当となった良弁僧正が青竜大権現を祀ったとの伝承もある。良弁は回峰修験の最終地である大山寺の創建者(755年)で、大山寺の初代住職は良弁、二代目が東日本で有徳の僧として知られた東大寺の徳一、三代目が空海(810年(弘仁元年)、空海37歳で東大寺第14代別当(長官)に就任)となるなど、奈良時代から平安時代にかけて日本の仏教界をリードした人脈が東丹沢から八菅山に投影されている。東大寺と大山寺・八菅山は、東大寺大仏建立の責任者として聖武天皇から招聘され大僧正に上り詰めた行基や良弁(ろうべん)と空海と徳一らの東大寺人脈でつながっている。  最近の論文で、東大寺初代別当良弁の出生地は、神奈川県秦野市北矢名漆久保に絞られた。相模国の生まれということだ。東国の窓・相模国に当初設置された国府・国分寺・国分尼寺(海老名市)に伸びた初期東海道(現国道246号:江戸時代の矢倉沢往還)が相模国に入って丹沢山系東麓の道路右側が「秦野市北矢名」、東海道と相模川(中津川、小鮎川の三川合流点)が交差する海老名市に国分寺跡、国分尼寺跡(東大寺が総国分寺)が残り、三川の中央・中津川の上流八菅山に国分寺・国分尼寺の僧侶の行場でもある東丹沢修験のスタート地点があり、塩川滝から入峰し、最終地の大山に、総国分寺である東大寺を創建した良弁が、大山寺を設置したことになる。良弁の出生地から目と鼻の先といった地理にあたる。  古代国家確立期に日本のその後の精神文化に絶大な影響を与えた華厳経に基づく華厳宗総本山東大寺と護国寺として想定され、金光明最勝王経を納める国分寺(東大寺は総国分寺)の設置は、神仏混交を特色とする日本の仏教(密教)的精神文化を形成した。明治元年の神仏分離、廃仏毀釈によって、全国の寺院が廃棄され、東大寺、興福寺の堂塔さえ売りに出され、仏教美術品が海外に売られ流出し、路傍の石仏の意義が希薄となり、故郷の伝統文化が細々と伝わり、ほとんど失われかけている現代。日本の精神文化の背景を「アジアの眼」から見直すのも少しは意味がある。第二章の初稿の最後に、東大寺・二月堂の水の物語を紹介する。

● 二月堂の下にも存在した地下水脈伝説

 東大寺・二月堂には修二会(しゅにえ)、一般に「お水取り」と呼ばれる仏教(密教)的行法が知られている。明治5年12月2日が1872年12月31日と、明治天皇の詔書と太政官布告で宣せられて、明治5年12月3日が明治6年1月1日となった。旧暦でなじんできた季節感は、一か月ほど遅れることになった。修二会はもともと旧暦で「二月に修する法会」で2月1日から2月14日まで行われていた。二月堂の名前の由来である。現在は、3月1日から14日まで行われている。  東大寺を開創した良弁の高弟・実忠(じっちゅう)が、天平勝宝3年10月、笠置山の洞窟奥深くで目にした弥勒菩薩の世界・兜率天の行法を地上で行うために立てたのが二月堂とされる。

二月堂の達陀の行法

 行法のクライマックスで行われるのが《二月堂の達陀(だったん;サンスクリットで「焼く」の意味)の行法》。「火天」(大松明を持った練行衆)「水天」(十一面観音に備える閼伽【サンスクリットで「水」】を持った練行衆)ら八天が行う行法で、3月12,13,14日の深夜、二月堂の須弥壇のある礼堂で行われ、「火天」は内陣で大松明を振り回して人々の煩悩を焼き尽くさんばかりに踊り、相対する「水天役」は灑水器(しゃすいき)と散杖(さんじょう)を持って水を撒き、「浄化」「煩悩を焼き尽くし、冷やす」という意味のある行事。大松明は、須弥団のある礼堂に突き出す所作のほか、回廊の欄干から突き出す所作で飛び散った火の粉が人々のお守りとなるとされる。この火と水の行法で使用される水が、「地下水脈」の水なのだ。

水天役の画像

 3月12日午前3時頃、二月堂下の閼伽井(若狭井)で汲み上げられた水は、3月2日福井県小浜市の遠敷明神を祀る神願寺(神宮寺)の閼伽井戸で送水神事が行われ、遠敷川の「鵜の瀬」から10日間かけて地下水脈を通して二月堂の若狭井まで送られたと考えられている。  「(遠敷川の鵜の瀬から地下水脈に入った)黒白二羽の鵜が岩を割って(二月堂の若狭井の)地中からとび出しそばの木にとまったが、その二つの跡から水がわき出て、いっぱいにたまった」

閼伽井屋の画像

 奈良国立博物館の西山厚学芸部長によると「閼伽井屋の中には咒師と堂童子しか入ることができず、真っ暗なため中の様子はわからない。しかし、昭和36年(1961)の第二室戸台風で傍らの杉の巨木(良弁杉)が倒れ、閼伽井屋が崩壊したために、内部が明らかになった。閼伽井屋のなかに水源はふたつあった。黒白二羽の鵜が岩から飛び出したという伝説は、荒唐無稽のようにみえて、水源がふたつという事実をふまえていたことがわかる」(『仏教発見!』)という。  古代ペルシャ学の権威・故伊藤義教氏は―「北方から正月の水が二本、地中をくぐって流下し、奈良の二月堂で地上に出た」という考え方があった事になる。そして、これはまさしくカナートと同じ考え方である。―(『ペルシャ文化渡来考』)  伊藤氏は、「遠敷の水」がゾロアスター教の女神アナーヒターに引き当てられていた、と判断した。 私は、東大寺と二月堂の関係が、良弁の出生地・相模国で、大山寺と八菅神社のシステムとして誕生したと考えており、この「地下水脈」の物語も、東大寺ゆかりの仏教(密教)人脈同様、その象徴と思われる。

その2に続く

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