第二章―アジア源流「〝幻の河オクサスから世界は始まった〟という物語」 その3
大野遼のアジアの眼
NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼
【出自不明の義淵がキーパースン。弟子たちが織りなした法界】
―東大寺の背景に「内道場」。則天武后の華厳経、金光明最勝王経が国分寺の淵源。誕生した「神仏混淆」―
前号で、蘇我一族による血族支配の絆として仏教が受容された、アジアの仏教史の一端を記した。インドの司祭階級を頂点とするバラモン教によるカースト制度の中から宇宙の真理「奥義書(ウパニシャド)」哲学を求める人々が生まれ、やがてクシャトリア(貴族)やヴァイシャ(商人)の中からカースト制度そのものを否定する仏教やジャイナ教(インド国内で継承され現在でも数百万人の信者がいる)が生まれた。利他行や菩提心を大切に思う大乗仏教は、既成秩序が衰退し新しい思考を受容したい人々、既成秩序の周辺で活動する人々や既成秩序の中で差別されたり、既成秩序の中で新興勢力として勃興した人々の間で、新しい支配軸として仏教が受け入れられ、国家や民族の優勢な勢力が政敵を凌駕するシステム構築に利用される形で、紀元前後から東アジアに普及した。普及の主役はマウリヤ朝やグプタ朝などのインド系王統下では、クシャトリアやヴァイシャ階級のインド人、イランや中央アジアではペルシャ系ソグド人もしくはペルシャ系パルチア人であり、インドでマウリア朝やグプタ朝インドでは、既成のバラモン教の司祭を中心とした権威や価値に反対する思想としてジャイナ教とともに浸透し、商業活動を担う人々の国家や民族を超えた符牒・絆として機能し、バラモン教を民族宗教と融合したヒンズー教誕生へと促し、中国では、儒教的徳治政治が揺らぐ中、また周辺民族である「五胡」による新しい中国支配軸に役立つ思想として、儒教や道教を変質させながら中国の皇帝から民衆の意識に浸潤した。こうしたアジアの思想界の大波を日本で受け止めた若者が四国で出現することで、東アジアの新思想・仏教はアジアの涯てに位置する日本列島で結実した。この若者を、山折哲雄氏は「知的遊蕩児」(『空海の企て』)と評している。空海のことである。彼は若い頃に書いた「三教指帰」中で、人生に苦悩する若者が中国伝来の儒教、道教、仏教世界に身を置く形で、時代と向き合う姿を描いた。この稿では東アジアの仏教史の中で鳩摩羅什とならび二大訳聖と称される玄奘三蔵と日本との関わりから空海が主導した密教的護国仏教の枠組み形成前夜までを記す。
● 飛鳥―奈良時代のキーパースン義淵
前号で、推古女帝と聖徳太子が、607年、小野妹子を派遣し隋(581‐619)の皇帝煬帝(604‐618)を「日没する処の天子」と記す国書を届け激怒させたことを紹介した。遣隋使は600年から614年まで5回派遣されている。朝鮮半島では高句麗が隋と対立し、日本は仏教受容派として天皇家の血族支配を完成した蘇我氏の一族の最盛期から藤原氏一族支配の奈良時代への揺籃期。煬帝への国書案文は高句麗僧慧慈との考えもある。「日出ずる処」「日没する処」には、東アジアを客観的に見ているアジアの眼が感じられ、ありうることである。中国では、北魏−西魏(東魏)−北周(北斉)−隋と、五胡の一つ鮮卑系の王統が続き、煬帝による大運河造成、高句麗遠征による民衆の疲弊によって隋末の争乱期を迎えていた。 玄奘三蔵(602‐664)が生を受け、青年期を過ごしたのは、この隋末から唐への移行期で、父は地方官僚であったが玄奘10歳の時死去、兄と共に11歳の時、洛陽の浄土寺に住込み、特別に許され僧となった。その後長安から四川に移り、26歳まで各地の高僧を訪ね教えに耳を傾けたが、疑念を生じ、教義の原典に触れ、インドの高僧から直接教えを得たいと決意。629年、27歳の時、国禁を犯して出国。645年、44歳の時、太宗の歓迎を受け帰国した。日本では、仏教を絆とし血族支配をしていた蘇我氏の一族支配が終了した画期となる年(大化改新)であった。玄奘は、太宗の庇護を受け、弘福寺、大慈恩寺そして晩年は玉華宮で訳経に従事、帰国して亡くなるまでの19年で、持ち帰った経典657部のうち75部、1335巻の翻訳を完成させた。持ち帰った経典の三分の一も訳経は進まなかったが、「唯識論」「般若経」の新しい経典は中国と日本の大乗仏教の新しい基礎となった。3月28日、愛川町の八菅神社で毎年行われる護摩供養火生三昧の火渡りの際に、修験者が唱えている般若心経が玄奘訳「大般若経600巻」が元になっている。 この玄奘三蔵の内弟子として教えを受けたのが、百済系船連氏の道昭(629‐700)。653年、玄奘は遣唐使の留学僧として特に可愛がり、玄奘の部屋で一緒に暮らしたという。日本の留学僧では、その後も(1)智遠、智通が玄奘、弟子の窺基から、(2)玄昉が窺基門下の智周から教えを受け、奈良時代前半の仏教界に玄奘がもたらした「唯識論」「般若経」を基礎にした法相宗の基礎を築き、興福寺や薬師寺がこの伝統を継承した。そしてこの道昭の直弟子が、東大寺大仏殿の建立で著名な行基であった。 玄奘と日本の仏教僧との関わりで、注目すべきは、国禁を犯してインドに向かい、帰国後は太宗の庇護を受けたものの、政治とは距離を置き、訳経を通し、インドで極めた仏教的認識論である唯識論を普及し、法相宗に道を開いた玄奘と、遣唐使として玄奘に私淑し、帰国後は飛鳥寺(後の元興寺)で禅の普及や土木工事に励んでいる道昭との関係である。この道昭の弟子として飛鳥寺で得度し、利他行に専心して、在野の僧として評価を集めたのが行基であった。政治と距離を置いた大乗仏教の軸はここまでであるように見える。中国が全体として皇帝の仏教、護国経として仏教を受容する流れに、遣唐僧が敏感に反応し、帰国後、「内道場」を作ったり、則天武后の例にならって、華厳経に基づく仏国土形成に移行する。 玄奘由来の法相宗を日本で実践した道昭や行基の周辺には出自不明の高僧義淵(643‐728)がいる。飛鳥から奈良時代にかけた仏教人脈のキーパースンである。天智天皇が観音信仰の末に誕生した孤児をひきとり、天武天皇の草壁皇子の嶋の宮で育て、天武・持統・文武・元明・元正・聖武の6代の天皇の傍で法相宗の祖となったとされるのが義淵である。義淵は飛鳥では岡寺(元嶋の宮:龍蓋寺)、奈良では興福寺が拠点となった。天智天皇や藤原氏に近い僧のようである。文武天皇の時(703)、当時としては仏教界の最高峰僧正になり、728年亡くなっている。天皇に近いところで法相宗を受容した、しかも本人は渡唐しておらず、義淵の弟子が渡唐し、玄奘や玄奘の孫弟子である智周から法を受容するのは703年以降のことである。既に上記したように、日本での法相宗は、道昭―行基のラインで請来されているが、その傍で、元興寺、そして興福寺、薬師寺を拠点とし法相宗を盤石にした義淵の活動は、藤原氏一族による天皇の血族支配を完成させようと動く(不比等の4兄弟は737年天然痘で全員死去)、中国の動静に敏感な戦略家の匂いがする。 しかも、行基も含め、道慈、玄昉、良弁、道鏡ら、当時の奈良仏教界で、天皇に近侍し、奈良時代を彩る護国の法界・南都仏教を築いたリーダー全てが義淵の弟子となっている。現代中国の鄧小平のように、私は時代の潮流にいつもキーパースンがいるのに驚くが、義淵は奈良時代のキーパースンのように思う。
● 東大寺は、義淵の弟子たちが織りなした法界
アジアの仏教史の中で、時代の狭間で奇跡的な活躍を見せた玄奘を軸として、日本の仏教界がどのように大乗仏教を護国の支配軸にしていったかを記す。 まずは、上掲したように、玄奘と同宿し親しく仏教の本質を伝授された道昭(日本における火葬の初め)と行基。道を造り、橋を掛け、池を造り、寺院を造営するなど社会事業に専念し、民衆のあいだで圧倒的な支持を受け、のちの親鸞、日蓮など民衆救済に動いた僧の魁である。権力の庇護を受けつつも政治と一線を画したり、国家の仏教ヒエラルヒーと距離を置き活動している。しかし行基は、聖武天皇から東大寺大仏建立への協力を求められ、これに一肌脱いで日本で初の大僧正の地位を得ている。
次が、謎の僧である義淵と一群の弟子たち。 弟子のトップバッターが道慈(〜744)。702年に山上憶良とともに渡唐。高宗・武則天の時代(武周690‐704)。インドの祇園精舎を模したとされる西明寺を拠点に16年間、経典を渉猟し研鑽を積んだという。718年帰国し、西明寺を模して奈良の大安寺を造営整備した。則天武后は、法蔵に華厳経を大成させ、帰国直後の義浄に金光明最勝王経漢訳させて、女帝の権威称揚に務めていた。道慈は三論宗(龍樹の中観宗)を学び、金光明最勝王経や虚空蔵菩薩求聞持法など最新の経典をもたらし、東大寺(華厳宗総本山であり、金光明経最勝王経護国寺:国分寺総本山)の性格付け、空海が大安寺で権燥から虚空蔵菩薩求聞持法を学び僧として飛躍するきっかけを与えている。政治の世界と距離を置き、晩年は竹渓山寺に隠棲したが、大安寺はインド僧菩提僊那、ベトナム僧仏哲、唐僧道?(せん)が訪れ、鑑真招聘に向かった普照と栄叡、空海や最澄と交流のあった勤操、また最澄の師にあたる行表も大安寺の僧であり、日本の仏教界に大きな足跡を残した。私は以前大安寺のすぐそばに3年ほど住んで、娘も大安寺保育園に通っていたが、空海も含め、当時のそうそうたる僧が出入りし、インドの祇園精舎につながる仏教センターの面影はなかった。 政治から一定の距離をとった道慈に比べ、より政治にコミットしたのが玄昉(〜746)である。717年、学問僧として吉備真備とともに渡唐。在唐18年の末735帰朝。玄宗皇帝(712‐756)の時代であった。玄宗は、則天武后とその娘太平公主による一族支配で殺戮が続いた時代を収束し政権に着いた。玄昉は、経典を学びながら唐代の政権中枢の動向をあまねく照覧して帰国。737年、天然痘で藤原不比等の4兄弟が死亡し、台頭した橘諸兄に接近し、精神を患っていた聖武天皇の母、藤原宮子の治療で信を得ると宮中に「内道場」を設置し宮中深く活動できる基盤を形成、光明子には則天武后が大雲寺を、中宗が竜興寺、玄宗が開元寺を一州一寺と設置したことなどを話したと思われ、後に741年の国分寺・国分尼寺(金光明四天王護国寺・法華寺)造立へとつながった。宮廷内の動向が批判され745年、藤原仲麻呂に筑紫に逐われた。橘諸兄の領袖として玄昉と共に支えた吉備真備も5年後に筑紫に左遷されたが奇跡的に復活、道鏡の選任で右大臣に上り詰めている。「内道場」は法華寺の東北に隣接する海龍王寺であった。 そして義淵の弟子とされる4人目が相模国(神奈川県秦野市北矢名漆久保出身)の良弁(689‐774)である。義淵の出生には「子供のない夫婦が観音信仰の結果得た子ども」という伝承が伴うが、弟子の良弁にも「良弁杉伝説」がつきまとう。子供に恵まれなかった漆屋太郎大夫時忠(『東大寺要録』)という国司夫婦は如意輪観音を造像した結果授かったのが良弁で、生後50日、畑にいたところを大鷲にさらわれて二月堂傍の大杉(楠、櫟とも)の枝のあいだに金色の鷲に抱えられた子どもを義淵が見つけ、育てられたという。良弁19歳の時、義淵が亡くなると、執金鋼神像を造り、「聖朝安穏、天下泰平、興隆仏法、利益衆生」を祈ったところ、五色の光が聖武天皇の王宮を照らし、聖武天皇が良弁を師として仰ぐことになった、という。道慈の開いた大安寺には736年、インド出身の僧菩提僊那・ベトナ、ム出身の僧仏哲唐僧の道?(702‐760)が訪れ、行基が迎えている。道?は良弁に華厳経を講じたという。また義淵の死去に前後して、良弁は、唐で法蔵から華厳経を学んで、大安寺にいた審祥から華厳経の講義を受け、740年から金鐘寺(728年、聖武天皇と光明皇后の第一子基王が死去菩提をともらうため若草山の麓に山房を建て、金鐘寺と呼ばれ、741年国分寺建立の詔が出されると翌年大和の国分寺として金光明寺となる)で3年間講義は続いた。743年、大仏造立の詔が出され、恭仁京、紫香楽宮と遷都を経て平城京に戻った745年、金鐘寺で大仏造立することとなり、行基を大僧正として建立のための寄進を広く求め、752年、大仏開眼法要の導師には菩提僊那が勤めた。良弁の高弟で、二月堂でお水取りを始めた実忠が、笠置山で弥勒菩薩の浄土兜卒天の行法を見たのが751年10月、実現したのが752年2月。開眼法要の2ヶ月前だった。法華寺、海龍王寺、二月堂の本尊は十一面観音であるが、八菅神社(寺)本地物のうち二体は十一面観音とされる。 東大寺は、華厳宗の総本山と言われるが、(1)大安寺を整備した道慈がもたらした金光明最勝王経が国分寺(総国分寺が東大寺)の奉持する護国経(七重の塔に収めた)となり、(2)大安寺にいた玄昉は、則天武后の大雲寺、玄宗皇帝の開元寺など、国分寺・国分尼寺を導入する道筋を与え、(3)行基が大僧正となって大仏造立の寄進に協力し、(4)大安寺に寄宿したインド僧菩提僊那が開眼法要の導師を勤め、(5)義淵の弟子で最も若かった良弁が大安寺にいた唐僧道?と唐の法蔵から華厳経を学習した審祥の2人から華厳経を学び、金鐘寺で3年間華厳経の講義を受けた後、大仏造立と大仏殿建立(758)を完成させ、東大寺初代別当になった。(6)東大寺を中心とする仏僧のヒエラルヒーに欠かせない戒律も、大安寺の普照と栄叡が派遣され、743年から10年、6回目の渡航で来日、聖武上皇、孝謙天皇に授戒、東大寺に戒壇を設置にこぎつけている。 以上記したように、奈良の東大寺を中心とした仏教による護国の態勢は、不思議な出自の義淵の弟子たちが織りなした法界ということになる。いずれにせよ、隋唐の皇帝が自らの地位保全のために庇護し、インドの竜樹が形作った仏法世界のさまざまな仏教精神を、天皇も皇后も帰依し(聖武天皇は三宝の奴と称した)、宮廷内で天皇近くで祈りを捧げ、看病する律師が侍る中国式の内道場(法華寺に隣接する海龍王寺)に時の高僧が近似する形が確立した。そして事件は起きた。
● 「内道場」(玄昉が唐制を模して設置)から誕生した「神仏混淆」
やはり義淵の弟子であった道鏡(700‐772)の登場である。大安寺で良弁から梵語を学んだという道鏡は761年、近江の宮で孝謙天皇(淳仁天皇廃位後重祚して称徳)を看病禅師として治療したのをきっかけに信任を得て(玄昉と同様)、藤原仲麻呂と淳仁天皇を追い落とし、766年、「法王」の位を得ている。怪僧、政僧と呼ばれた個々の話題は省略するが、宗教的理想と民衆との乖離、政治との癒着と崩壊は、宗教誕生以来続いていると言わざるを得ない。 特に触れておかなくてはいけないのは、玄奘がもたらした法相教学(宗)は太宗の保護で普及し、日本の義淵とその弟子たちの間で受容されたが、東大寺を中心とした華厳経、華厳宗の法界での優位性は、則天武后が中国で華厳経の大成者とされている第3祖法蔵を保護したことで定まった。「大方広佛華厳経??を所依の経典とする華厳宗は、・・・則天武后の保護によって成し得たものであった。玄奘の法相宗が唐の太宗によって権威づけられていたのに対し、則天武后は武周革命の意義を見いだすためのひとつとして、玄奘を上回る強力な宗教思想を必要とした。この要求に応え、宗教思想として形成されたものが、まさしく法蔵の華厳であった。法蔵はこれまでの法相唯識を第二の大乗始教として位置づける教判を成立させたことにより、華厳宗は法相宗よりも高度な思想体系であることを示し、則天武后は武周朝の保護下に華厳宗を位置づけることで優位に立つことを示したのである。」(『中国北朝末期仏教の考察−北斉における盧舎那仏信仰の台頭―』村松賢子≪武蔵野大学大学院博士課程≫)日本での東大寺を中心とした法界は、道昭と義淵の弟子たちが、唐の太宗が庇護した法相宗を基礎とし、則天武后が保護した華厳経と金光明最勝王経の二つを柱として建てることで現出した。 以上が、玄奘三蔵がもたらした第二次シルクロードの終着駅である中国と日本の護国教の一端である。大安寺が生んだ仏教人脈に異変が起きたのは、「三宝の奴」とまで宣言した天皇の宮中に、仏教の「内道場」が設置され看病禅師として僧が入り込み、聖武天皇の娘孝謙天皇が出家し尼となり、重祚して称徳天皇となった後の大嘗祭(765年11月22日)翌日の宣命においてである。称徳天皇は「朕は仏の御弟子として菩薩の戒を受け賜はりて在り。此に依りて上つ方は三宝に供奉り、次には天社、国社神等をもゐやびまつり・・・然れども経を見まつれば仏の御法を護りまつり尊びまつるは諸の神たちにいましけり。・・・出家せし人も白衣も相雑はりて供奉るに、豈障る事は存らじ・・・」(『続日本紀』天平神護元年十一月二十三日/『空海の企て』山折哲雄)物部守屋と蘇我氏一族の血みどろの戦いから二百年。ここにきて、「神仏混淆」の新しい時代の窓が開いたのである。しかしこれは仏教誕生以来アジア規模で進行していた必然の結果であった。
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