第二章―アジア源流「〝幻の河オクサスから世界は始まった〟という物語」 その11
大野遼のアジアの眼
NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼
【オクサス(アムダリア)を表象とするアナーヒターに帰属した「地下水脈」】
ヒンズークシュの南でハラフワティ、ホラーサーンでアナーヒター アーリア人が未分化の時代に誕生した「地下水脈」。インドでは「ハラフワティ」の伝説がサラスヴァティ
―「山麓で牧畜と農耕」を始めたイラン・アーリアが、鉱山技術で掘削したのがカナート・カレーズ―
私は前稿の最後に「(男性結社マイリヨ/;インドラがその表象/による)飲み過ぎへの戒めや痛飲して非道を行う「悪」との戦い「善思善語善行」が打ち出されているのがゾロアスターによる宗教革命の方向であった。こうしてインド・アーリア人がヒンズークシュ西方の東イラン(現アフガニスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン)からインド北西部、パキスタン北部へ移動し(あるいは追われ)た後に形成されたのが善の創造主アフラマズダが創った「一六国」であり、その中央を流れる川こそオクサス河(旧アムダリア河)であった」と書いた。しかしこの「悪」との戦いが最初に行われたのは、オクサス河周辺(ホラーサーン)ではなく。「一六国」のうち南に位置するアラコシアからドランギアナにあるヘルマンド川流域のようである。オクサス河流域は、ゾロアスターの布教が軌道に乗った時期のようだ。 どうも、「地下水脈」の物語は、ゾロアスターの誕生と死の物語と関わっていそうで、啓示と布教、挫折と新たな宣教というゾロアスター教の形成とゾロアスターの人生の軌跡に沿っている。 つまり「先住民の掠奪者」のように記されるリグヴェーダ「インドラの歌」に対して、そのインドラが酩酊して行う非道を批判し、「善思善語善行」のメッセージを発信し、アフラマズダの下で善霊に従うことを教導しようとしたゾロアスター教の形成には、1.「インドラを敵」として活動を始めた段階?「アフラマズダの王国:一六国」が確立した段階―があるようだ。
● 「前史」からゾロアスターの布教開始まで:「アフラ(アスラ)」を共有した時代から敵対の時代へ
ゾロアスターは30歳の時啓示を受けたのち、シースタンからアラコシアで布教を始める。それがいつなのかは、紀元前1200年から600年まで、「600年」の幅がいまだ存在する。しかもこの善思善語善行を呼び掛けるアフラマズダの宗教が誕生したのには「前史」があり、インド・アーリア人が、ソーマを痛飲し陶酔してダーサ(色の黒い原住民:インダス文明を支えたドラヴィダ系の人々?)を虐殺したり略奪した紀元前1800年頃から1500年頃の間に、インド・アーリアによる虐殺略奪があった一方で、インド・アーリアが高度な文明社会から多くの精神文化、物質文化も吸収する接触融合の過程も進行していた。虐殺略奪の痕跡は、アラコシアの東方に位置するモヘンジョダロで発見された遺体が証明する。とりあえず仮説だが、インダス文明に深いかかわりを有するBMACの都市崩壊にも関わった先発インド・アーリア人のこうした活動を目にして、後発のイラン・アーリア人は、先発インド・アーリア人を行き過ぎた悪事を働くアーリア人として差別化し、インドラ、ヴァルナ、ミトラ、二柱のナサーティアを善に敵対する悪神のグループとして戦いが徐々に始まっていたのだと思われる。 一方先住民との接触融合の過程は、この先発・後発のアーリア人の敵対を孕みながら、無文字文化の年代観では上述した通り数百年に及び、その中で、虐殺略奪的侵略だけでなく、先住民との接触融合も進み、宗教的世界もアーリア的世界から融合的世界が誕生する。インド・アーリアのヴァルナが「アスラの性を持つ」「偉大なる幻力」と表現され、イラン・アーリアの創造主アフラマズダに相応していた時代であった。この「善」と「悪」の未分化の時代、「インド・イラン共通時代」こそ、ミスラ(ミトラ)を絆とする遊牧的男性結社が、鉱石ネットワークを形成する農耕都市文明の女系社会との接触で新たに生まれた観念が、リグヴェーダの「アディティ」やアヴェスタの「アナーヒター」であるというのが後藤敏文氏(前?東北大学大学院教授)である。「インド・イラン共通時代に何か相当に大きな変革があった。(インド・イラン系遊牧民社会が)現地の文化と遭遇して、その新たに出会った文化が相当に強力で、制度的な問題をクリアする必要に迫られた、そうでないと生き延びることが出来なかった、そういう状況下で、外圧から借りた観念を神々として表象し伝えている」のがリグヴェーダの「アディティ」とアヴェスタの「アナーヒター」だと指摘している。 「アディティ」も「アナーヒター」も、従来「無垢の」という意味を与えられていたが、後藤氏は新たに「縛られない」「無拘束、自由」の意味を与え、二つの言葉は殆ど同一の意味を持つ語彙で、「共通の起源から」出た「借用翻訳語」と解釈。アムダリア(オクサス川)の(自由なる)「氾濫と河道の変更」を指すのがアナーヒターと解釈したオェッティンガーの指摘を紹介しながら、「ある河川を指してこれが豊穣の女神の姿である、と同一化されたことはあり得ます」とし、豊穣の女神や一種母系的な社会に通じる要素を示すと考えている。「アディティ」は、インドのほとんどの重要神(ミトラ,インドラ,ヴァルナ,ヴィシュヌ等)の母であり、「アナーヒター」は、河神「ハラフワティ」を継承し、のちにアケメネス朝のアルタクセルクセス二世の頃から、アフラマズダ、ミスラと合わせ、ゾロアスター教の主要な三神の一つとして定着する。 要するにもともとインド・アーリアとイラン・アーリアの共通の時代があり、インド・アーリアにおいては、後にイラン・アーリアからインドラとともに、悪神に貶められたヴァルナには、リグヴェーダで「彼(最高の君主)は、空間に立ち、あたかも規矩によってのごとく、太陽によって地界を測量せり」と創造主のように記され、しかも「アスラの性を持つ」「偉大なる幻力」と表現され、「アスラ」が信仰の対象として記されることもあり、夕暮れの太陽サヴィトリ神と空間を「よく導くアスラ」が重ねられている。インド・イランのアスラ(イラン・アーリアのアフラ)は、インド・イラン共通時代の神話的宇宙の盟主であった時期があるのだ。ヴァルナが、イラン・アーリアの創造主アフラマズダに相応していた時期があったのである。
● 「太陽も水も山上にある」−「地下水脈」の誕生
インド・イラン系アーリアの世界観では、「太陽も水も山上にある」という考えが濃厚であった。太陽は、山を移動しながら(アヴェスタでは東西に180ずつの出入り口がある)昼と夜の太陽があり、山岳地域を除けば乾燥した大地を潤す川とその終着駅である海(湖)を、循環する水系と考える考えも同時に示されている。ゾロアスターが誕生し、啓示を受け、布教を始めたヒンズークシの南で、最初に現われたイラン・アーリアの天水は文字通り「ハラフワティ」(ハラー山の水)で、ヒンズークシ山脈の西端パロパミソス(ハラー・ブルザティ:ハルブルズ/ハラー山)から流れ出て、ヘルマンド湖に注いでおり、インド・アーリアのパンジャブから南に流れる、「サラスヴァティ」に対応している。乾燥した大地を潤す川に伴うのが「地下水脈伝説」である。これは山と深いかかわりを持っていた。 ゾロアスター教の宇宙論を記す「ブンダヒシュン」(『貿易風 ―中部大学国際関係学部論集―』野田恵剛)には、第11章 川の性質についてで「・・オフルマズドは2本の川を北方からとハルブルズ山から流したが、1つはアラングで西に向かって、もう1つは東に向って流れ、ウェフ(良い)と呼ばれる。(2)その後から、18本の川が同じ源泉から流れ出した。同じハルブルズから大地に流れ落ち、フワニラフに現れた。・・」と記され、この「大地に流れ落ち」という原文andar zamīg frōd šud hēndを、伊藤義教氏は「大地の中に下り」、中央州クワニラフ(フワニラフ)で地上に現われたと読み解いた。 これは、「天水」(ハラフワティ)が地中に潜り、地上に吹き出すという砂漠のオアシスをイメージするが、伊藤氏によると、この地下水脈はイラン語動詞kan-「掘る」から由来しており、「イランやアフガニスタンでカナートとかコレーズ(カレーズ)といっている地下送水施設」だと指摘している。 伊藤氏によると、文献の上でカナートの最も古い記述は、アレクサンダーの後継王朝セレウコス朝のアンティオコス三世がパルティアに侵攻したした時、アルシャク二世がカナートを潰してヘカトムピュロス東方に退却しし(紀元前209年)、ポリュビオスが歴史の中で、現地人の話として、アケメネス朝ペルシャの時代にこのカナートを奨励し、これをつくって灌漑の便をはかったものには五代の子孫にまで、その土地の耕作権を認めていたとされる。古代ペルシャの正月(春分正月)である、今の3月−4月が「アードゥカニシャ(カナートの月)」とされることが、「庶類利益のために二河が北方の源泉から流れ出し、アルブルズの下で地下に下り、第七洲(中央洲・クワニラフ洲)で地表に出たとされるのも春分の日と関連の深い出来事であった」と指摘、奈良・東大寺二月堂の若狭井の水と比較した。春分の日は、ペルシャ暦(イラン太陽暦、アフガン暦)では「ノウルーズ(ノヴルズ)」と呼ばれ、アケメネス朝ペルシャ以前から続く、ゾロアスター教起源の祝日・正月として今でも祝われている。 「カナートイランの地下水路」(岡崎正孝著、論創社)によると、このカナート(カレーズ)は、アケメネス朝ペルシャ以降世界各地に伝播したと記され、現在では北イラクで365本、エクバタナ(現ハマダーン)では紀元前7世紀からカナート掘削の記録が粘土板に残され、ペルセポリスはカナートの水で都市が維持され、ペルシャ帝国の将軍たちが不毛の砂漠にカナートを掘削してオアシス集落を営み、高原地域でカナートを掘削し経済力を高めたという。アケメネス朝ペルシャの支配下にあったエジプトでも、ダリウスが導水した(紀元前518年)カナートが今でも使用され、パルチア朝からササン朝にかけて、シリア、トルコ、ギリシャ、キプロス、アラブへと広く伝播し、イスラム以降、アルジェリア、リビア、イベリア半島へと普及した。 このカナートの分布の中心はイランからアフガニスタンと考えられており、ヒンズークシュ山脈の南麓から北西インドにかけて、クエツタ北西を含めインダス河西方から北にかけて広範に存在するのが、グーグルアースでも見ることが出来る。有名な西域・トルファンのカレーズも碁盤の目のような井戸がびっしりと並んでいるのが分かる。これがインドの「サラスヴァティ」東イラン南部の「ハラフワティ」、ゾロアスターがホラーサンに布教に転戦した以降、ハラフワティに替わって使用される「アナーヒター」に淵源を有するというのが伊藤義教氏の提案である。「地下水脈」の淵源も、ヒンズークシュの南北、インダス川から中央アジアのオクサス河流域にかけた、山と河、海(湖)を「ワータ」がつなぐ、太陽と水が循環する大地の中から誕生したということである。
● 「地下水脈」:「ハラフワティ」が誕生したのはゾロアスター以前
要するに、インド・イラン共通時代に、農耕都市文明であるBMACやインダス文明と接触し、高度な文明の持っていた鉱石採取に伴う「火」や「水」の儀礼、「ソーマ・ハオマ」の吸引、母系社会の女神信仰、牛畜信仰を取り入れる、遊牧民の接触混淆の過程が進行し、遊牧畜民の持つ男系社会特有の太陽信仰と融合した、「山上に太陽も水もある」信仰的宇宙観を誕生させ、地上ではミトラで結束する男性結社の行き過ぎた非道(ソーマに酩酊したインドラの悪行)を「悪」(デーヴァ)と捉えるマズダ(知恵)を生じ、アフラマズダ(知恵主)を創造主とするゾロアスター教が誕生する。この「悪」と戦う「アフラマズダ」とゾロアスターの誕生の地が、モヘンジョダロの西に位置する、ヒンズークシュの南、シースタンからアラコシア、ドランギアナにかけたヘルマンド川流域なのだ。ここで「天水」は生まれ、「ハラフワティ」と「サラスヴァティ」が分化した。 リグヴェーダに記されるインドラの事績と、アヴェスタに記される、これに敵対するゾロアスターのシースタンでの10年間の布教が、トゥーランの反ゾロアスター者への教化誘因であり、トゥーラン出のフリヤーナー一族が帰依したほかは「必ずしも完全に成功したとは言えなかった」(「ゾロアスター研究」序にかえて/伊藤義教)という、ヒンズークシュ南からインダス川沿いでの、アフラマズダの宗教誕生の事績と重なると考えると、女系社会の侵略、接触融合からアーリア社会の分化の過程で誕生したのがゾロアスターとなる。 そして「山上から流れ出す東西二流」の宇宙観の誕生の地もヒンズークシュの南であった。アラコシアはアヴェスタで「ハラフワィティ」と呼ばれ、「ハラフワティ」が想定され、イラン・アーリアとインド・アーリアが「善」「悪」でお互い敵味方の神々の体系が構成された際に、イランの「ハラー山」はインドの「スメール山」に、イランの「ハラー山の水」である「ハラフワティ」は、インドの「スメール山の水」である「サラスヴァティ」が形成された。「ハラフワティ」と「サラスヴァティ」が語源的に同じで、h-sの音韻変化が指摘されているが、「ハラフワティ」が意味のある語であることから、この場合h→sの音韻変化によって「サラスヴァティ」が生じたと考えられているようだ(この行岡田明憲氏の教示による)。従って、「地下水脈」である「ハラフワティ」が誕生したのも、アーリア社会の分化以前:「ゾロアスターの誕生以前」。この稿全体の年代観で言えば、「紀元前一千年以前」ということになる。
● 「ハラフワティ」から「アナーヒター」へ交替。ゾロアスター宣教の結果
ゾロアスターは、ヒンズークシュ南での布教の挫折の後、ホラーサーンのテジェン川流域を宣教の地へと転戦する。「反ゾロアスター教徒」の間での宣教に挫折したのち、ウィーシュタースパ王が支配する、ヒンズークシュ北西のハリー・ルード(ハリー川)の下流テジェン川流域から、BMACが栄え、既にインド・アーリア系によって城址の機能が途絶えていたメルブ流域から、オクサス川を含むホラーサーン一帯への影響力を拡げた。ゾロアスターは、宰相フラシャオシュトラの娘フォーウィーと結婚、ゾロアスターの死後、末娘ポルチスターはフラシャオストラの弟で宰相のジャーマースパに嫁いだ。伊藤義教氏はこれを「政略結婚(?)と記している(「ゾロアスター研究/序にかえて」)。
こうしてゾロアスター教の基盤を強固に固めた後に出現したのが、後藤氏が、先住の母系社会から継承した「縛られない」自由の女神「アナーヒター」であり、アフラマズダの娘として、「悪:ダェーヴァ」との戦いを支援する、水と川の女神である。岡田明憲氏は「(この河神アナーヒターは)ゾロアスターによって斥けられながら(ガーサーには記されない)もイラン人一般には根強く残っていた信仰を、ゾロアスター教的形態のもとに体系化していった事情を物語っている」(「ゾロアスター教 神々への讃歌」岡田明憲 平河出版社)と指摘。ゾロアスターは、ウィーシュタースパ王の支持と「政略結婚」で東イラン(アフガニスタンを中心)での存在基盤を築いたのち、「アナーヒター」は「ハラフワティ」に取って替り、「ダエーワ」(インド・ イランの主神)と敵対し、「灌漑・家畜・耕地・富・領土」を増大する、アフラマズダの娘として、「アルドウィー・スル・ヤシュト」(アヴェスタ・第5ヤシュト)に紹介される。そしてアフラマズダが創った「一六国」が記されているのは、アヴェスタ21巻本のうち現存の第19巻に相当すると考えられている「ウィーデーウ・ダート(悪魔/ダエーワに対抗する法)」の第一章である。 ゾロアスターの布教の地が、ヘルマンド川南方からヒンズークシュ北西に移ったことを反映し、反ゾロアスター教徒の住むトゥーランの地も、インダス河下流西方からアムダリア(オクサス)の北岸一帯を指すようになり、シースタンを指していた「アルヤナ・ワエージェフ」も、「アルヤナ・ワエージェフ」があったとされる「ダートヤー川」も、南から北へ、ハリーロード(川)とその一帯を指し、「ハラフワティ・アルドウィー・スーラ」に替って「アルドウィー・スーラ・アナーヒター」が現れた。(「アルドウィー・スール・ヤシュト第五節-17」、「同第十一節-41」、「ウィーデーウ・ダート第一章」、「同第二章-20」)。こうして「ハラフワティ」がヘルマンド川を指していたのに対して、「アナーヒター」も、(自由なる)「氾濫と河道の変更」を起こしていたオクサス川(アムダリア)を示すようになったと考えられる。
● ヒンズークシュ山麓のカナート・カレーズ誕生の秘密は鉱山技術にあった
それでは、ハラー山のフカルヤ峰からたぎり落ちる「ハラフワティ」そして「アナーヒター」という川の女神が表象の一つとする「地下水脈」は、ヒンズークシュ山脈の周辺でなぜ誕生したのだろうか。アケメネス朝ペルシャ以後西アジアに広く普及したこと、楔形文字の研究者J.レッソエ氏による、アルメニアにあったウラルトゥ王国の王が「水の出てくるところmusa」を示し、用水路を造ったという記述を「カナート」を示すと解釈しているのが本当であれば、記録による最古のカナートということになるようだが、カナート(カレーズ)を示す、「ハラフワティ」の記録は、アフラマズダの宇宙創造に伴う記述であり、アケメネス朝ペルシャ以前、あるいはゾロアスターの布教以前、ヒンズークシュの南で掘削されていたと想像される。前出「カナートイランの地下水路」によると、インダス川の西クエツタ等のほか、ヒンズークシュ周辺でも、ゾロアスターが布教に転戦したヘラートからファラー、カンダハール、ガズナ、カーブルと半円形に分布しているという。 当然、当時乾燥化・寒冷化でオクサス川が流路を変更し、オクサス川に注ぐデルタも姿を変えるという時代も背景にある。もともと降水量の少ない地域で、新たにヒンズークシュの山麓の乾燥地域で牧畜とともに農耕にも従事しようとしたイラン・アーリア(ゾロアスターは農耕を奨励している)にとって、水路開発は課題であった。「第5ヤシュト」では、「アルドウィー・スーラ―・アナーヒター」は「灌漑・家畜・耕地を増大する」と記されている。また女系農耕都市文化であったインダス文明の都市は、優れた「水路管理」を特色としており、インド・イラン系アーリアは、この「水路管理」もインダス文明から学び吸収したのではないかと思われる。 最近私は、厳寒のシベリアのサハ共和国のヤクーツクを訪問した。そこには友人がたくさんいるのだが、その一人ニコライ・バラムイギンさんとシベリアの大河、レナ川について話した時のことだ。レナ川の川底には、厚さ400メートルに達する凍土が分厚く大地の層を形成しているが、冬でも、夏でも、レナ川の川底には、もう一つの川が流れているという。北方ツンドラの人々がこの地下水脈を利用していたかどうかは確認できないが、川底にもう一つの水流がある−という話を聞いて、思わず私の住む愛川町の中津川の川底に洞窟(水路)があって、江の島の川の女神弁才天が歩いて上流の塩川滝まで歩いたという話を思い出した。乾燥化・寒冷化で干え上がったプラアムダリアやインダス川東方のサラスヴァティ川など、ヒプシサーマル後、寒冷化・乾燥化が進み、流路が変わるあるいは地上の流路が消える、という現象を見た古代の人々も地下に水脈があることを知っていたのではないか、と思った。私がグーグルアースで子細に見てみると、プラアムダリアの痕跡は地上の「塩の道」として残っている。旧河床の下に、地下水脈があることを経験的に確認していたということはなかったであろうか。 いろいろ思考を巡らせていたところ、前出の「カナートイランの地下水路」にカナートの技術的系譜という下りが目に入り、くぎ付けとなった。そこには概略次のようにあった。「技術史家フォーブズは次のように述べている。(一)カナートは、古代の鉱夫が山腹に水平に掘った横坑と、基本的に同じである。(二)一定の間隔を置いて(息抜きのための)竪坑があり、これは非常に古い時代の鉱山技術に由来するものである。(三)新石器時代の燧石鉱山は、鉱脈に届くまで竪坑が多数掘られ、しばしばこの竪坑が横坑で結ばれていた。この技術は、後代の鉱夫も活用していた。(四)鉱夫は、他の何びとよりも、自分たちの作業の障害となる地下水と地下水層を見抜く力をもっていた。・・・(以下略)」 地下水脈である「ハラフワティ」「アナーヒター」;「カナート」「カレーズ」の記述が、なぜヒンズークシュの周辺で誕生したのかという謎が一気に氷解した。 この一帯は、インド・イラン系アーリアが出現する直前まで、鉱石ネットワークで銅、錫の鉱石山地だった。 私はこの稿の前半で、銅器(金石併用)文化が、女系の農耕都市文化の発達を促し、この都市のニーズに応える形で、トランス・エラム文明と呼ばれる鉱石採取の交易ネットワークが形成され、文字が誕生し、さらに錫を必要とする青銅器の時代になると、ヒンズークシュを中心とするアフガニスタンは、当時の唯一の錫鉱石産出地として大きな役割を担うようになり、インダス文明や北メソポタミアとの要に位置する、バクトリア・マルギアナ考古学複合(BMAC)の王宮や拝火神殿、ハオマを特徴とする都市が形成された。この都市は、銅や錫、ラピスラズリなどの「錫の道」「ラピスラズリの道」の鉱石交易のセンターとして発展したと考えられ、やはり鉱石が欲しくて南下してきたアンドロノヴォの人々と接触し、彼らに大きな文化的影響を与えた。アーリア人の先発グループは、インダス系都市文化の廃絶に力を示し、粗暴なインドラへの批判の形でアフラマズダを創造神とする「善」の信仰がゾロアスターによって提示され、牧畜も農耕も奨励するイラン・アーリアの生活スタイルに合わせる形で、「ハラフワティ」「アナーヒター」が誕生した。インド・イラン系アーリアは、鉱石交易のセンターの役割を果たしたBMACの周辺で、採掘や搬送に従事していたとも考えられ、「鉱脈」を探し竪坑、横坑を掘る鉱石技術で、容易に、山麓で「水脈」を探り当てることができたのだ。これが「カナート」「カレーズ」誕生の秘密であった。インド・アーリアは、イラン・アーリアに比べて、比較的水量の多いインダス川やガンジス川に沿って、先住民族の間で君臨したため「地下水脈」は神話的伝説にとどまり、イラン・アーリアは、オクサス(アムダリア)や水流の多い流域ではなく、「山麓での牧畜と農耕」を選択したため、「地下水脈」が必要となったと考えられる。 愛川町を流れる中津川の地下水脈、あるいは東大寺二月堂の若狭井の地下水脈の謎を追ってたどり着いたのは、北西インドから中央アジアにかけた、古代史の曙の時代に、女系農耕社会から男系遊牧社会への転換が行われ、現代の国家につながるアケメネス朝ペルシャの水回りとなったカナート・カレーズにあったのである。この「地下水脈」は、「錫の道」の交易センターとして栄えたBMACを目指したインド・イラン系アーリア人が、未分化の時代に、BMACに鉱石を供給した鉱夫の鉱山技術で掘削が始まり、ゾロアスターの最後の宣教の地となったヘラートを中心とするホラーサーン地方のオクサス(アムダリア)を表象とするアナーヒターの仕事に帰属したのであった。
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