研究ノート:実演家とはなにか
棚野正士備忘録
棚野正士
「実演家」とは、著作権法が定める「俳優、舞踊家、演奏家、歌手その他実演を行う者及び実演を指揮し、又は演出する者」(二条一項四号)であり、「レコード製作者」「放送事業者」「有線放送事業者」の三者と共に著作隣接権を保有する。
著作隣接権者の中で、実演家は自然人であり他は事業者である。はじめに、自然人であり著作者同様の創造者である実演家の性格を考察し、また他の著作隣接権者との関係を見ておきたい。
(一)久松保夫の遺言
俳優であり芸団協設立の最大の功労者である初代専務理事久松保夫は一九八二年六月十五日急逝したが、亡くなる前二年ほどは入院しながら、病院を根城にして専務理事の職務を遂行した。亡くなる十日ほど前のある日、病室で新聞で読んだ吉田秀和の評論を引き合いに出して、作品というものは実演によって初めて生命を与えられる、実演なくして作品は存在しないということを熱心に語ってくれた。
吉田秀和は、朝日新聞「音楽展望」にこう書いている。
「音楽は演奏を通じて、私たちのところにやってくる」「ちょっと見には、演奏は絵の複製に当たり、楽譜こそ本物のように思われるかも知れない。しかし、楽譜は作曲家の考えた『音の構造物』の設計図、青写真のようなものだ。それは音楽そのものではない。楽譜は最も基本的な第一資料ではあるが、それと音との間には楽譜に出て来ない、いろんなものがはさまっている」「演奏家、特に『クラシック』の演奏家は、古い不完全な地図を頼りに、現代という価値の基準が多様化している時代に、音楽的感動という、はなはだつかみにくい宝さがしをやっている人種と見えてくる」「演奏は、作曲にほとんど劣らぬ、創造的想像力の働きを不可欠とする仕事なのである」(一九八二・五・二〇付け夕刊三版五頁)
これは自らも実演家であった久松保夫のいわば遺言としていつまでもわたくしの耳に残っている。
(二)石本美由起の美空ひばり論
一九八九年九月、高松市で開催された文化庁著作権講習会で、作詞家石本美由起JASRAC理事長(当時)は、同年六月二十四日に死去した美空ひばりについて講演し、こう話した。
「美空ひばりとは昭和二十九年に出会い長い付き合いだった。一生に一度でよいから自分の作品を歌唱してほしいと作家が考える歌手であった。森進一、五木ひろしは自分が想像した通りに歌ってくれる。ひばりは自分の想像できない世界を創ってくれる。別の惑星からきた歌手と言ってよい。七色の声を持っていた。普通の歌手は一色であるが、歌によって感情も音色も変わり芸人として必要なものはすべて持っていた」
これは、天才歌手美空ひばりについての芸術論であるが、「演技者は作家の創り出した世界の枠をのり越えて、次元の異なるところで独自な精神的・肉体的創造活動をする」と考える久松保夫の演技者論と一致する。
(三)小澤征爾の音づくり
日本経済新聞の「私の履歴書」で、指揮者小澤征爾はこう書いている。
「先生(斎藤秀雄)が僕らに教え込んだのは音楽をやる気持ちそのものだ。作曲家の意図を一音一音の中からつかみだし、現実の音にする。そのために命だって賭ける。音楽家にとって最後、一番大事なことを生涯かけて教えたのだ」(第二十四回「斎藤先生逝く」二〇一四・一・二十五付け)
〝作曲家の意図を一音一音の中からつかみだし、現実の音にする。そのために命だって賭ける〟という指揮者小澤征爾の音づくりに実演家の本質を見ることが出来る。
(四)野村萬の至芸
二〇一五年十月十八日国立能楽堂、「萬狂言特別公演」で能楽師(狂言方和泉流)・人間国宝野村萬(芸団協会長)の「枕物狂」を観た。また、二〇一六年一月二十四日には「萬狂言冬公演―大蔵流・和泉流異流共演―」で野村萬の「木六駄」に出会った。
両演目とも物語りは単純である。前者は老人が若い娘に恋をして、枕を付けた笹をもって狂乱する話だし、後者は主人に言われて太郎冠者が牛十二匹につけた木六駄と炭六駄、酒、それらを書き付けた書状を都の伯父に届ける話で、その筋立てはひと言、ふた言話せば済む。
しかし、野村萬の演技(演戯)は観る者の魂を揺さぶる。仏師が仏像を刻むようにひと鑿ひと鑿精魂込めて時を刻む。永遠の時の中に祈りを刻む。
わたくしはその至芸に触れて、実演家の営みは神の行為ではないかと感じた。
(CPRA20年棚野正士「歴史の流れから産まれたCPRA」より)
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